見てずんずん行くとやはり左側に立派なドアがある。ここがひろ子の部屋と見える。
ひろ子の案内でわれわれ二人は美しい令嬢の部屋に通された。
「いや、素晴らしい結構なお部屋ですね」
藤枝がお世辞でなく思わずそういつた位、美人に似つかわしい美しい部屋であつた。
7
「では、ちよつとここでお待ち遊ばして……」
ひろ子はこういうと部屋を出たが、木沢医師を呼びに行つたのだろう。
藤枝と私は、椅子の傍らに立つた儘、部屋の中を見まわした。
壁には泰西名画の写真が二つかけられ、部屋の一方に寄せられてあるテーブルの上には、美しいカーネーションがその姿に相応しいかおりを室内に送つている。一方の壁によせて大きな書棚がおかれてあつた。
「マドモアゼル(令嬢)の愛読書があるぜ」
藤枝が指すので、ガラス越に本棚をのぞくと一番上の列に第一に目についたのは Richard《リヒヤルド》 Muther《ムーター》 の「絵画史」とそれに並ぶ L《エル》. Nohl《ノール》 それから Paul《パウル》[#「Paul」は底本では「Panl」] Bekker《ベッカー》 の有名な Beethoven 伝だつた。
「Spricht sie Deutsch ?(おやあの人はドイツ語をしやべるのかしら)」
藤枝はちよつと驚いたように独り言を云つたがすぐその下の段に目をやつた。
そこには我国で発行された、文学、音楽、美術に関する書物が美しく並べられていて、この部屋のもち主の教養の程度を物語つている。
「わがヴァン・ダイン先生とドイル先生とはどこにいるのかね」
藤枝はしばらく本棚を見つめていたが、やがて、私を見ながら左手の方をさした。そこには、ヴァン・ダインの既刊の五冊の小説とドイルのシャーロック・ホームズ物が殆ど全部、それから、Wallace Runkcl, Rosenhayn, Hans Hyan,(後者三つはドイツ文)の小説、更に隣《とな》つて、Kingston Pearce 等の犯罪実話が並べられてあつた。
(私は、実は一生懸命になつてハンス・グロースの本を探した。これがあるといよいよ「グリーン・マーダー・ケース」に似て来るのだけれど、流石にそうした法律的の書物は一冊も発見出来なかつた)
われわれが本棚の前に立つて、M・C・Cをくゆらしている所へ、ひろ子が戻つて来た。
「どうかおかけ遊ばして。只今木沢先生が見えますから……」
しばらくたつと、木沢医師がにこやかな顔をしてはいつて来た。
藤枝は十八日に木沢氏に会つて既に顔見知りの間柄になつているのだが、私はまだ改めて紹介して貰つた事がないので、一応ひろ子からひき合わせてもらつた。年の頃は卅七、八で、極くおだやかそうなお医者さんである。
「いろいろお骨折で大変です。御主人は少しはおちつかれましたか」
「ええ、今催眠薬のせいでずつと眠つておられます。大した事はないのですが、何分引きつづきの御不幸でショックを受けておられますから……」
「先生などの御立場から見ては、とても人には会わせられませんか」
「いや、そんな事はありませんが」
木沢氏は一寸黙つたがやがて云いにくそうに口を開いた。
「しかし、今はお会いになつても無駄だと思います。一言で云えば、ここの御主人は、医者――それも私以外の人には全く会いたくないと云つておられるのです。無論お嬢さん方は別ですが、現に、大した事はないのですけれども、看護婦でもよばれたら、とおすすめしたのでしたが、それも好まれぬらしいのですよ。ノイラステニーの極く烈しい状態ですな。フィーベルはないようですが、アペテイートが全然ありません」
「本人自身についての警戒は心要ありませんか」と藤枝がきく。
「ガンツ、ニッヒとは云えませんな。これは私共の方と同時にあなた方の領分ですが、ゼルプスト……」
ここまで云いかけたが木沢氏は流石に医者である。一方の本棚の中にドイツ語の本があるのを見てとると、ひろ子の前で次の言葉を発するのをさしひかえてしまつた。
8
木沢氏は、医師の癖でドイツ語をしきりと会話の中に入れたのかそれともひろ子の前を憚《はばか》つてわざとそうしていたのだか、私にはよく判らないけれども、ドイツ語が解し得られるらしいひろ子には充分わかつていたようである。
藤枝が、駿三に自殺の危険はないか、と云つたのに対して木沢氏は絶対に危険なしとは云えない、と答えようとしたのに違いない。
それに早くも気が付いたのか、それともわざと気を利かしたのか、ひろ子は、
「木沢先生がこちらにいらつしやる間、私、父の所にまいつておりますわ」
といいながら、皆に軽く一礼すると廊下の方に出て行つた。
「ともかく今申した通り、秋川さんの容態はそれ自身としてはさして危いことは
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