あるからそんなに恐怖したと思われても仕方があるまい」
「でも、私があわてて逃げたのは今云つた通りで外に理由はないのです」
「君ちよつとききたいが」
藤枝が口を出した。
「さつき君は、やす子と問答をしていた際、やす子が『あれ、誰かこつちに来る』と叫んだので母屋の方を見ると、誰かが出て来たと云つたね」
「はあ」
「その時出て来た人は男だつたか女だつたか。大人だつたか子供だつたかおぼえているかね」
早川は暫く考えていたが、やつと口を開いて
「何分私は遠くから人の出て来るらしいのを見ると、すぐこりやいかんと思つて後をも向かず逃げ出してしまつたのですから、よくおぼえませんが」
と答えた。
「しかし、これは大切な所なのだ、よく思い出して見給え」
だが、早川は何とも答えなかつた。
そこへ口を出したのが警部だつた。
「お前が云えなければわしが云つてあげよう、その時出て来たのは十四、五の少年だつた筈だ」
9
「十四、五の子供が?……」
早川が意外な、というような顔できき返した。
「そうさ。十四、五の少年だ。つまり秋川家の息子なんだよ。そこでお前は、やす子を殺して夢中になつていたものだから、のぼせ切つて、あの暗闇の中でその子も一緒に殺してしまつたんだ。そうだろう」
「あの……子供も……殺された!」
この時の早川の顔付こそ世にも不思議なものだつた。駿太郎が同じく殺されていたなんて、全くはじめて聞く事実であるのみか、司法主任の質問の意味が、さつぱりわからないで面喰つたという有様である。
狂言とすれば実に巧みな狂言と云わなければならない。
警部は、しかし相手の様子に少しも構わずたたみかけた。
「お前にはつきりと聞かせておく。お前は、昨夜すなわち四月二十日午後九時、秋川駿三の家の塀を乗りこえて同家の庭に侵入し、女中佐田やす子及び同家の一人息子秋川駿太郎を惨殺した、という嫌疑で今取り調べられているのだぜ」
早川はこれを聞いて、暫く呆れたようにぼんやりと警部を見つめていたけれども急に、自分が非常に危険な位置にいることにはつきり気が付いたのか、ぼろぼろと涙をこぼすと同時に両手で顔を蔽つて、
「何も知りません。何も知らないんです。二人殺すなんて……。一人だつて殺したおぼえはありません」
と叫びながらそこに泣き伏してしまつた。
藤枝はさつきから、早川の様子を黙つて眺めていたが、この時テーブルの上にもみくちやにおいてあつた紙片を手にとつて、おもむろにそれをひろげた。
それはさつき早川の供述中にあつた佐田やす子の紙つぶて[#「つぶて」に傍点]であろう。下手な鉛筆の走り書きで、今スグ行キマス ムコウノポストノソバデマツテイテ下サイ と記されてある。
早川辰吉のむせび泣きがやつとおさまりかけた頃藤枝は静かに早川に向つて語りはじめた。
「君にもう一つ参考の為にきいておきたい事があるんだがね。さつき君の話の中に佐田やす子がたつた一人大変親切な方があつて自分に同情してかばつてくれている[#「たつた一人大変親切な方があつて自分に同情してかばつてくれている」に傍点]、という言葉があつたな」
「はあ」
「君はその親切な人の名[#「親切な人の名」に傍点]をやす子から聞かなかつたかね」
早川はじつと藤枝をながめた。
警戒するような目つきでしばらく見ていたがやがて、
「いいえききませんでした」
とはつきり答えた。
彼からは、藤枝もやはり自分を死刑台に上らせようとする人間の一人だと見えているらしい。
「では、やす子が君に語つた時のようすで、その親切な方というのが男だか女だか判らなかつたかい」
早川はまた暫く藤枝の方を見つめていたが、やがて悲痛な調子で叫んだ。
「ああ、あなた方は、またそんなことの何も知らぬことばかりきいていじめるのですか……」
彼はこう云つたまま下を向いて再びむせび泣きはじめた。
警部も藤枝も、少しも顔色をかえず、黙つて彼の様子を見ていたが、ちようどその時ドアをノックして一人の巡査が現れた。
「伊達正男はさつきから刑事部屋に待たしてあります。それから林田氏が今見えましたが……」
「うんそうか。林田氏を通してくれ給え」
あらしの前
1
間もなく、林田が戸口に現れた。
「やあ、高橋さん先刻はわざわざお電話ありがとう。早速うかがうわけだつたんですが秋川駿三を今ちよつと訪問して来たのでね……藤枝君、秋川駿三は可哀想にひどく弱つてるぜ。昨夜から床についた切りだよ。木沢医師が今朝からずつと来ているけれど、面会謝絶の状態さ」
「そんなに重態なのかい」
「何、そうでもないんだが本人が一切誰にも会わん、と頑張つているらしいんだ。何分われわれがいる所であの騒ぎだろう、どうも僕らは信用をすつかり失つちまつたらしいん
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