あげて、
「いえ、どう考えても左様なことを致したおぼえはありませぬ」
ときつぱり云い切つた。
「じやお前に云うが、お前が昨夜話したという佐田やす子は、すぐあの後、首をしめられて死体となつて発見されたのだ」
「え、何ですつて? やす子が……殺された……」
若者は思わずこう云つたが急に今まで緊張していた表情が弛緩して、ぼんやりした目つきになり、唇がだらりとたれ下つた。
この様子を見ると、彼は、やす子が死んだのを、今まで全然知らなかつたという外ないが、犯罪人のやるうまい狂言はこうした時に巧みに行われるものだから反対にこれを実に上手な芝居だと解釈することもできるわけだ。
警部は若者のようすをしばらく黙つてながめていたがやがて問を発した。
「じやお前は、今までやす子が殺されたのを全く知らなかつたのかね」
「はあ、全く……」
いかにも全く知らなかつたように早川は答えた。
「それじやきく」
警部の調子は急に厳然となつた。
「お前は何故ゆうべおそく、つまりけさ早く新宿駅をうろうろしていたのだ。さつき云つただけのことならまた下宿に戻つていればよかつたじやないか。お前がどこかに高飛びをしようとしていたのは、とりもなおさずお前がやす子の殺されたのを知つていたからではないか。云いかえればお前があの時殺したからだ。殺す気はなかつたかも知れん。しかし夢中で首をしめている中、女が仆れたのでお前は驚いてとび出しそれから一旦下宿に戻つてまたとび出した。お前は人殺しという大罪を犯したから高飛びをしようとしていたのだろう」
「いいえ、決してそうじやありません。そんな……そんな大それた事を私が……やれるわけはありません」
早川は意外な嫌疑が自分にかかつているのをはつきり感じたという風に泣声になつて叫んだ。事実彼は涙をぼろぼろこぼしながら語つたのである。
「とんでもない。そんなこと。私は、塀からとび出すや否やすぐ例のポストの所に行つて待つていました。中々待つてもやす子が出て来ないのでしばらくしてまた塀の近くに行つて草笛をふこうかと思つていますと、何事が起つたか、巡査が二、三人秋川邸のまわりを歩いています。こりや怪しまれちやいかんというので、一時私は下宿に戻りました。しかしそれから今の出来事をつくづく考えて見たのであります。今日自分が塀をこえて人の家にはいつたこと、それから、その時やす子の云つたこと、これらをつくづくと考えたのです」
8
「嘘かほんとうか判りませんが、とにかくやす子がもつていた薬が劇薬にいつの間にかかわつていたとすれば、あの日彼女にひそかに会つて話をしたことに嫌疑のかかるというのは不思議ではありません。十八日頃の秋川家のようすと云い、あの夕刊を見ても、やす子の話はまんざら嘘とも云えぬのです。こう考えて来ると私は真に不安になり出したのです。それに、今警部さんも云われた通り、いくら私がうぬぼれてもやす子が今私に恋してるとは思えないので彼女がはつきり私のことを、警察なり探偵の方に云つてしまえば私の立場は実に危いのです。何分私は今は一定の職もなく、偽名を用いて宿にいる人間ですから、変に思われても仕方がないのです。
「こう思うと、一刻ももはやぐずぐずしてはいられませぬ。それに、やす子の話では、自分にたつた一人親切にしてくれる人があつてやす子をかばつてくれてはいるということですけれど、その方というのは私の事を疑つているのだそうです。それがほんととすればやす子は少くともその人には私の事をしやべつているに相違ない。これはぐずぐずしてはいられぬと思つて、別段にあてもなく下宿を飛び出してしまいました。それからどこをどううろついてたかおぼえませぬが、はじめて上野駅にまいりました。が、あそこは何だか、刑事さんが張り込んでいるような気がしておちつけませんので、とうとうしまいに新宿駅へと来てしまつたのですが、その時はもう夜が更けて汽車がないので、疲れ切つてあの辺をうろうろしておりますと刑事さんに怪しまれてつれて来られたのです。かような次第で、私が昨夜秋川家の塀をのり越えて人様の庭に忍び込んだのはたしかなことで申し訳ありませんけれども、やす子の死については全く存じませんです」
早川辰吉は、こう云つて不安気に一座を見渡した。彼の様子にはしかし落着いたところは見られなかつた。
「じやお前は、やす子を殺したのが恐ろしいのではなくて、秋川夫人の殺人犯人と見られはしまいか、というのであんなにあわてて宿を飛び出したというのか」
「は、そうです。それに相違ありません」
「ではお前は、秋川夫人の死に関係があるのか」
「え? 何ですつて?……いいえ絶対にありません」
「そんならお前は何もそんなにあわてて逃げ出す必要はなかつた筈じやないか。つまりお前があの事件に何か関係が
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