朝刊に間にあうまでに記者に会う筈はないから全くの創作だろうが、まさにこれは御両所の云わんとする所であろうと私にも思われるから、まんざら与太とも云えまい。ただし、犯人の目星云々は少々早すぎはしまいか、とよんで行くと、案外にもどの新聞にも犯人の目星はついているから今明日中には捕縛されるであろうと書いてある。これは当局の言としても記されている。
 さてはあれから裁判所の連中は有力な手係りを見出したのか、そうそう警視庁の連中も塀を越えた怪漢のあるのを確かめた筈だ。では佐田やす子の素性も判つたのかな……
 あれ程秋川一家を脅かした怪人も、案外脆くも捕まるのかしらん……こんなことを考えながら私は藤枝の事務所に電話をかけた。
 ゆうべの約束も思い出したのだが、元来、大寝坊の彼のことゆえ、まだ事務所にご出張がないといけないと思つたのである。
「昨夜は失敬、小川だよ」
「ああ君か。すぐ来いよ。おそいじやないか」
「まだ君がねているかも知れないと思つたのでね」
「どう致しまして。近頃は大変な早起きだよ」
「新聞を見たかい。藤枝氏曰くどうも面目次第もありませんだつてさ」
「おい、くだらぬことを云つておらずにさつさと出て来いよ」
 こんな会話が一応電話で行われてから私はすぐに彼のオフィスにかけつけた。
 相変らず、彼は部屋中を一杯の煙にしてその中の大きな机に向つて腰かけていた。
「昨夜はどうも御馳走様。相変らずああいう所で大もてだね。羨望に堪えずだな」
「いやまつたくあれこそ小川氏曰く、どうも面目次第もありませんという所だよ」
「僕は昨夜あれから殆ど眠らず事件を考えつづけた。一晩かかつて注意すべき点だけをノートに取つて見たが、ねえ君、いつか云つた言葉をいよいよ取り消さなくてはならない」
「何だい」
「探偵小説に出て来るような稀代の犯人がやはりこの世にいるということだよ」

      2

「稀代の犯人?」
「そうさ。稀代の大犯罪人、稀世の殺人鬼、比類なき大悪漢、いや暗黒街のナンバーワン。犯罪界のカイゼル、無比の大英雄、罪の国のナポレオン、犯罪芸術のベートホーヴェン、大天才、大秀才、という讃辞を奉つてもいい。いよいよそういう人物が今や僕の敵手として現れたのだ。仮りにもし僕が今考えている通りだとすればね」
 私はいささか呆気に取られた形であつた。
「ああそうそう、それからもう一つ、昨夜、君の讃えているジュリエット姫のあの自動車の行動を、ノンセンスだと片付けた失言をも取り消さして貰おう」
「何だ。ひろ子嬢の事かい」
 藤枝は何か非常に重大な事を考えている時に、わざとその気もちを表わさぬように、かえつて軽快にいやにはしやいで語るのがくせである。私はこの部屋にはいつて来た時からの彼の言葉の調子で、彼が余程難問題にぶつつかつているなという事を感じた。
「ねえ君、当局は犯人の目星がついた、と云つているようだぜ。君の讃えるナポレオンとカイゼルとベートホーヴェンを一緒にしたような犯罪王も案外尻尾を早く出したようだよ」
 私も負けずに彼の調子に乗じてやつた。
「もつと正確に云えば、当局の言明は昨夜秋川邸南側の高塀を乗り越えた怪漢が捕まりそうだという意味だよ。物事は出来るだけ正確に云つてもらいたいな」
「では真の犯人は?」
「だから彼はナポレオン、シーザー、ミケランジェロ、ベートホーヴェン、ショパン……ショパン、そうだ、そう云えば今しがた林田から電話がかかつてね、もしや昨夜僕がショパンのレコードを耳にしたか、もし耳にしていたらどの辺まできこえたかとてきいて来たぜ。あのレコードに気がついたのはさすがに彼だよ。ただ気の毒な事に丁度あの時彼は二階にいて、あの音楽を自分では聞かなかつたんだね。それで、恥を忍んで僕にきいたわけだろう。僕はきいたけれどもどこまでだつたかよくおぼえていないと答えてやつた。たとえ同盟はしても秘中の秘だけはちよつと云いにくいやね。それに先生だつて僕に大分かくしている所があるらしいからな」
「へえ、あれへ気がつくとはやつぱり林田先生だけある」
「いやもつと素早い事があるんだ。昨夜あのレコードを僕がいじつたろうと来た。どうして判つたつて聞いたら、彼もあのレコードに目をつけたと見えてあのレコードを秋川家の者に云つて当局に調べて貰つたそうだ。ところでレコードからは、犯人の指紋のかわりに、駿太郎の指紋とあと二人の指紋がとれたという事だ。詳しくきいて見るとそれがどうも林田と、斯くいう小生のものだつたらしいんだね。お笑い草だよ。あんなトリックをする犯人が、御丁寧に指紋なんか残してゆくわけがないじやないか。あはははは」
 私も一緒になつて笑つている所へ、先に命じてあつたと見えて、給仕が紅茶とトーストを二人分だけもつて来た。
「僕あ、めしはすんだよ」
「そうかい、じや僕だ
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