れどこういつた風の令嬢が乗つたと云うのだ。もつともここの前までは来ず向うの角で乗り捨てたそうだがね」
「それにしても、溜池で車が止つた時手前にもガレーヂがあつたろう。どうしてすぐ敷島ガレーヂが判つたい」
「そりやこうさ。あの位の女性がトリックで人をまく時人につけられぬ為に車にのる時は、目的の地点を決して乗りすごさず得てして少し手前で止るものなんだよ。見給え、僕の処へ来た時だつてわざと乗り越さずに手前で下りている。然しこんな事を調べるのが目的じやなかつたのだ、さつき泉ガレーヂできくとあの日、さつきの運転手がひろ子を送つて帰つて来た途端、秋川家からと云つて電話がかかりどこまでひろ子を送つたか、ときいて来たので彼は何げなくほんとの答をした。すると暫くしてから今の赤坂の敷島ガレーヂに今度は何者とも云わず、電話がかかつてひろ子のらしい形容を一応してその行先をきいたというんだ。もつともこんどの運転手はここの名は知らなかつたがともかくこの附近で止つた事を云つたそうだ。ところではじめ泉ガレーヂへかかつた時は男の声で敷島ガレーヂにかけたのは女の声だつたそうだぜ。曲者はこうやつてひろ子の足取りを研究した上、ただちにタイプライターを打つておどかし、つづいて例の怪しい電話となつたんさ。何も不思議はありやしないよ」
「そうか、そんなことだつたのか」
「然しね、林田の奴、いちいち僕に一歩ずつ先へ廻りやがる。今しがたちよつと前に泉ガレーヂへカイゼル髯の男が来てやつぱり十七日のひろ子の行動をきいて行つたそうだ。驚くべき腕だよ。ひろ子が来た事もすぐ判つたろう。もつともお互様でね、あの日、午後に秋川駿三が、林田の家に二十分程行つていた事が判つたよ。駿三はひろ子のようにトリックを用いなかつたからすぐ知れた」
こう云つて彼は腕時計を見た。
「おやもう十一時半だね。冷たいものをのむ所はもうこの辺にはないな。どうだい君は大分近頃この辺で発展なんだろう。どこか大きなバーへつれてゆけよ」
藤枝がバーに連れて行けというのは余程不思議なことである。酒を一滴も呑めない彼は平生バーへは誰か呑む人が引張らねば行つたことがないのである。
しかし、酒の多少のめる私はあえてこれを拒む気にはならなかつた。
すぐ側のサロン、エネチヤという家にはいると早くも私は知り合いの女給たちに囲まれてしまつた。
藤枝はと見ると、オレンヂエードか何かを一杯命じたまま、ジャズと喧騒のバーの空気にも一向心を動かすようすもなく、眠そうに傍のクションに身をもたせて一言も発せず天井を薄目をあいては時々見ている。
「まあ、こちら、変な方ね。オレンヂエードに酔つてるの」
なんて女給にからかわれてもまるで気にする様子もない。
私は私で藤枝には少しもかまわず、搾取主義の女給達の云いなりほうだい、カクテールをのんだりのませてやつたり、果物を御馳走したりしていいかげんいい気持になつてしまつた。
「Wein, weib und Gesang か」
ふと彼はこう云つたかと思うと立ち上つて、
「おい僕は先へ帰るよ。じやあした朝オフィスへ来給え。左様なら」
呆気にとられている私や女達を残して消え去つた。
殺人交響楽
1
四月二十一日の朝八時過ぎ、私は目をさました。
前夜久しぶりにバーにはいり、分別盛りの年甲斐もなくいい気持になつちまつて藤枝においてけぼり[#「おいてけぼり」に傍点]を食わせられてから、まだおそくまで残つていて大分酔つて戻つたのだが、酒のために床に入るとそのまま、恐ろしい殺人事件も何もかもすつかり忘れてぐつと一息に眠つてしまつたらしい。
目をさますとすぐ昨夜の事件が気にかかり出したので床の中で新聞紙を手あたり次第にひろげて見ると、ある、ある、「秋川家の殺人」とか「秋川家の惨劇」「殺人鬼現る」とかいう標題でゆうべの事件が盛んに報道してある。
「第一の悲劇」という項で私が記した夫人の死については先にも述べた通り、過失死となつておさまつたので、昨夜現場に私達がいたのは、夫人の葬式の後、偶然居残つていたという事に報道されている。
けれども、われわれの居合わせたことが偶然であるにせよないにせよ腕利きと云われた高橋警部、鬼と云われる藤枝、それと並んで竜にたとえられる林田、この三人の目前で二人の人間が惨殺されたという事実はたしかに都人士をして戦慄させるに十分だつた。だから二、三の新聞が「殺人鬼現る」と標題を作つたのは少しも不思議ではない。
面白いのは、こんな記事がかかげてある某紙だ。
「藤枝、林田両氏は悲憤の表情で交る交る語つて曰く、いやわれわれがいる所でこんなことが出来てしまつて全くお恥ずかしいです。然し犯人の目星もついていますから間もなく捕まるでしよう云々と」
勿論昨夜この二人が、
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