るりと立ち上つて机の前に行つたが、それから何か考えこんでしまつたと見え私に背を向けたまま、一言も発せず、しきりとまた煙草をすいつづけはじめた。
 私はこんな時、また彼の頭を乱してはいけぬと思い、そつと彼の事務所を出かけ、銀座通りに出て昨日彼と一緒にお茶をのんだ店に寄つて、紅茶をすすりながらいろいろと事件のようすを考えて見た。
 ここではつきり云つておくが、これは、四月十八日のことである。だから秋川家の惨劇は、四月十七日の夜半《よなか》に起つたものということになる。
 喫茶店を出て、洋品店のウインドなどをのぞき込みながら約三十分程たつて事務所に戻つて見るといつのまにか秋川ひろ子が、今日も目立たぬなりでやつて来て、藤枝と向い合つて何か話している最中だつた。
 私が挨拶をすますと藤枝が私に話しかけた。
「今ちようどこのお嬢さんが見えたばかりなんだよ。警察の諒解を得て僕の所にやつて来られたんだ。僕もきのうきかなかつた点をききたいところだつたのでちようどよかつた。――じやあひろ子さん、どうかつづけてお話し下さい」
「ほんとに、何から申し上げてよろしいやら、私、昨夜の事で気も顛倒しておりますの。でもこんな事になりはしないかとは、ひそかに考えていたのでございます。きのうも申し上げました通り、脅迫状がまいこんでまいり、父はすべての会社から手をひいてしまつたのですが、その後ますます神経衰弱がひどくなるばかりなのでございます。今年になりましてからは、例の手紙が前より頻繁にまいりますの。従つて父の様子はますます変になるばかりでございました。ところが、今度は、家の中で妙なことが起りはじめたのでございます」
「ほほう」
 藤枝は急に身を乗り出した。
「これはどうもはじめがいつ頃かはつきり致しませぬけれども、今年になりましてから父と母との仲がひどく悪くなつて来たのでございます。いつも余り泣いたりせぬ母が、どうもこのごろヒステリーのようになつてまいりまして、その度が段々はげしくなつて来たのでございます。私もはじめのうちは、どういうわけで父母が争いを致すようになつたのだか判りませんでしたが、ある時、二人の争いをそつときいておりますと、たしかにさだ子と伊達さんの結婚問題が中心なのでございます」
「つまり、あなたがさつき検事に云われたように、財産の問題なのですな」
「はい、だんだんきいておりますと、たしかにそうなのです。三分の一だか四分の一だかそれは私存じませんけれども、ともかく母の方はそんなにやることはない、そんなことには絶対に反対だ、というようです。父は父でどういうわけか、また自分の云い分を決して一歩もひかないのでございます。これはまことに妙なお話なのです。何故つて、父はさきにも申しました通り脅迫状の一件で何事にも恐怖心をもつており、そんな剛情をはる気力もないのに、このことになると、大変な見幕になるのです。母は元来おとなしい女で、今まで父と争つたりしたことはないのですけれど、やはりこの問題にふれると大変むきになつて、ヒステリーをおこしてしまうのでございます」
「たとえばどんな調子なのです?」
「ある時母が云つた言葉は、『あんなどこの馬の骨だかわからないものにそんなにやるなんて……』というような事がありました」
「どこの馬の骨? すると伊達のことをさされたのでしようね」
「ところが先生、すぐそのあとから『相手の男だつてどこの者だか判りやしない』という言葉が母の口をついて出たのでございます」

      3

 藤枝は左右の手の甲を交る交るこすりはじめた。これは彼が非常な興味をもつてあるものを観察するか、何事かをきいている時にきまつて出る癖である。
「ほほう、そりやちと妙ですな」
「あの……でも私、それからいろいろ考えますと、何だかこんな気が致しますの、あのさだ子というのは実はまつたく他人で、私の実の妹ではないのじやないかしら、と……」
「然し、さだ子さんはたしかにお父様の子のように思われますがね」
 藤枝はこの言葉を充分確信あるもののように云い放つた。
「父の子? では母の子ではないとおつしやるのですか」
「そこですよ。あなたが今まで云われた点から、もしさだ子さんの素性を疑い得るとすればですね、そこを疑い得るということです」
「まつたくそうなのでございます。私もこのごろになつてさだ子は私の妹ではない、少くとも母の子ではない、ということを信ずるようになつたのでございます。それで母があんなに父に反対しているのだと考えられるのでございます。一体今までこんなことを少しも思わなかつたのは、母が少しもさだ子に冷淡でなかつたからでございますの。今年になつて例の結婚の話と、それに絡む財産の問題が起りますまでは、一回だつてそんな様子を見せたことはございません。さだ子だつて勿論
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