とは必ずしも信じないよ。仮りにこの事実を探偵小説だとして、真犯人があの家の娘の誰かだとすれば、作者は余程腕がないと云わなけりやならない。それじやまるでヴァン・ダインの小説の通りだからな。……もつとも作者はわざと読者の裏をかいてそんな所に犯人を定めるかも知れないが……ともかくわれわれは小説中の人間ではないからね。しかし、くり返して云うが、ひろ子が昨夜、ヴァン・ダインのあの小説を読んでいたという事実は、今度の事件のうちで非常に重大な意味をもつていると君は思わないかね」
「とはどういう意味だい」
けれど藤枝はこの問には答えずそのまま黙りこんでしまつた。
車はいつの間にか麹町区を通りぬけて、人通りの多い銀座の通り近くを走つている。
私は藤枝の言葉をいろいろに考えて見た。
成程、今藤枝の云つた通り、脅迫されて青くなつているひろ子が、昨夜、あの恐ろしい探偵小説を読んでいたということは、ほんととすれば――いやたしかにほんとに違いない、あの美しいひろ子が何でうそなどいうものか――余程不思議な事実である。
彼女は悠々とあの小説によみ耽つていたのであろうか。それとも何か他に目的があつて読んでいたのだろうか。
しかし私にはその目的が全く判らなかつた。
私がこんなことを考えているうちに、車は早くも藤枝のオフィスの前に止つた。
オフィスにはいると、彼は先ず机の上に積まれてある手紙に目を通したがやがてその中の一通をとり出した。
「おい君、また妙な手紙が来ているぜ。三角印だよ。少々しつこすぎるじやないか」
彼はこう云つてその内容を私に示した。
文句は相変らず邦文タイプライターで、この手紙はちやんと切手がはつてあつて郵送されている。消印は麹町区。内容は、
「五月一日を警戒せよ」
という九字であつた。
私は藤枝の少しもあわてない態度に実はひそかに感心したのである。藤枝ばかりではない、さつき秋川邸でこの種の手紙を受け取つた際の、林田探偵も少しも顔色をかえなかつた。
さすがに二人とも名探偵といわれるだけあると思つた。
藤枝は、おもむろにポケットからさつき受け取つた手紙を取り出した。それから、昨日ここでひろ子宛に来たあの手紙をも取り出した。
彼はこの三つを机の上に並べながら仔細に見比べていたが、やがて拡大鏡を取り出してレンズを通してしばらく見ていた。
約十分間彼は何も云わずに見ていたが、何も云わずに傍の重要書類を入れてある箱の中にこれをしまつた。
「ねえ、五月一日とはよかつたな、メーデーだね。馬鹿な事をするねえ。犯人というものは時々こんなことをするものだよ。これが彼、もしくは彼女の手落ちにならないことを僕は望むよ……あはははは」
彼はこういうと、ふと机に向つて、紙をおいてしばらく何かしきりと書き込みはじめたのであつた。
5
私は実は気が気でなかつたのである。
警察も無論活動を開始しているであろう。
林田探偵もあの秋川家にふみとどまつて、その神の如き鋭い頭を働かしているであろう。
だのにわが藤枝真太郎はこのオフィスで、一向あわてる様もなく何か悠々と机に向つて書いているではないか。
「おい君、いやに落ち着いているじやないか。そんな事をしていていいのかい。活動しないでも」
私はたまりかねてとうとうこう云い出した。
「活動? 何をあてに君、動くつもりなんだい。僕らはあるふしぎな事実を知つている。然しはつきりした事実を少しも知らない。それを知らずに君どうして動けるものかね。まず充分ここを働かしてからにしようぜ」
彼はこう云つて自分の額を指でさした。
「ねえ、僕は念の為に今までの事実をノートに記して見たのだ。これから君と二人でこの事実を考えて見ようじやないか」
おもむろに机の上から数葉のペーパーを手にとると、彼はその中から一枚のペーパーを取り出して私の前に腰かけるとおちついて語りはじめた。
「僕は今までの事件を二つにわけて見た。つまり大体の事実と、秋川一家の人々の供述とだ。まずはじめに、惨劇までという項目から事実をぬき出して見よう」
こういうと彼は、側においてあつた、とつておきのスリーキャッスルを一本つまみ上げ、ダンヒルライターを巧みに用いてそれに火をつけた。
「われわれは秋川駿三という人物の存在を知つている。この人の現在は興信録にある通りだ。三人の娘と一人の息子があり、宏壮な邸宅を山の手にもつている。信用録その他で見ると彼の資産は約八十万と云われ、それが不動産でなく大抵現金と有価証券とから成つていると云うから大したものだよ。ただ大切な事は、彼が一代にしてその富を成した、という事をわれわれは知つているが、如何にしてその巨富を作つたかということについては残念ながら僕らは今の所まつたく無智だ。この点をまず第一に心にと
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