めておく必要がある。ところで彼は今まであまたの会社に関係していたが、昨年の十一月頃に急に全く社会から関係を絶つてしまつたのである。ひろ子の云つた通り四十五という男盛りでこれは少くとも通常の出来事ではない、と云わなければならん。
その隠退の表面の理由は極度の神経衰弱だけれども、誰もその原因を知ることが出来ない。これが又重要な点なのだ。長女ひろ子の説によると、彼は何か自分のいのちの危険をおそれているらしい。いいかえれば彼のいのちをおびやかす人間がこの世にいるか又はいると彼は少くも信じているのだ。
その具体的なシンボルは例の赤三角の封筒だよ。八月に一回、十月に一回、彼の所に脅迫状が来たことはたしかだ。しかしわれわれはまだこの他にも来たかも知れないと思うことができる。
そこで又ここに注意すべきは、駿三はこの手紙を誰にも――警察は勿論家族のものにも一切見せなかつたということだ。家族に見せないというのは一応常識で判るけれども、全然当局に示さぬというのはどういうわけだろう。しかして、その上にだ。彼はその手紙をどこへどう始末してしまつたか全然われわれは知ることはできない」
「ねえ、藤枝、秋川氏は誰にもこの話をしなかつただろうかね」
「そう思われるね。ただたつた一人、林田英三君にはいつかしやべつたかも知れぬよ。彼中々信用を博しているから。しかし彼に話をしたにせよ、わりに近くのことだと思うね。さてそこで又々注意すべきは、昨年の十月になつてから次女さだ子の所にもへんな手紙が来たという事実だよ。
6
「君は、さだ子がその赤三角の手紙を父にもつて行つた時の父の慌て方をひろ子からきいたろう。そこで又一つ考えなければならぬことがおこつた。すなわち、われわれは不幸にして父の所に来た脅迫状の内容を知ることができないが、一体その脅迫状は、駿三のいのちをおびやかしているのか、又その家族にも危害を加えると云つているのかという問題だ。駿三のあわて方から考えると、たしかに後者だと見なければならない。更にここで今一つ君に注意を喚起したいのはこれらの手紙は全部郵送されて来たということだよ。
次にもう一つ不思議なことがおこつている。
それははじめて気味の悪い手紙を受け取つた当人のさだ子がこれを姉には云つたけれど、母には云わなかつたという事実だ。君はひろ子が、この点について、確信を以て、さだ子は母にいわなかつたろうと思うといつたことをおぼえているだろうね。父が誰にもいうなといつたからいわなかつたといえばそれまでだがね、ちよつとふしぎじやないかな」
「しかし姉ひろ子には、はつきり話したらしいね」
「それはあの場合、どうしても話さなければならなかつた状況にあるからさ。それに或いは姉には話しても母にはいわぬという理由があつたかも知れない。これはしかし僕には大分判つて来たよ」
「そうかな」
「つまり秋川一家では昨年の夏から年の末まで主人がおどかされ通しで、それを知つていたのはひろ子一人、そうして、そのまま今年にもち越して来たという事になる。ところで昨年の末から昨日までのようすは生憎、君も知つている通り、ひろ子からきく事が出来なかつたが、察する所、段々その脅迫の度合がひどくなつて来たと考えればいいのだろう。
つまり、ひろ子がたまりかねて僕の処にとび込んで来た、と見ればいいわけさ。
以上が惨劇までの秋川一家のようすだが君は一体これをどう思うね」
「そうだね。まあ常識で考えて判ることは主人の過去に何か恐ろしい秘密があると思うよりほかに仕方があるまい」
「そうさ。秘密というより或いは犯罪かも知れないよ」
彼はスリーキャッスルの煙をゆらゆらと上げながら云つた。
「さて、そこでいよいよ昨日の事件にうつるのだ。ひろ子がここに来ていたことは、たしかに犯人、少くともあのへんな手紙の発信者には判つていたと見える。彼は少くとも犯罪の予告をしている。
徳子が頭痛がするといい出した。さだ子が自分の薬をのまそうと発議した。そこで佐田やす子に云つて薬局にいいつけて薬を作らせた。次いでやす子がこれをとりに行き、すぐ受け取つて、誰にも会わず家に戻つた。薬局を調べて見るとたしかに間違いはない、これは高橋警部が二回も調べ、医者も立ち会つたから大丈夫だろう。そこで封印のしてあるまま、さだ子がこれを保管して夜、母にのませたのだ。しかるにそれがいつのまにか毒薬に変じて母がその場で死んだということになつている、君は一体これをどう考えるね」
「どうつて、何をさ」
「われわれの常識では、アンチピリンが昇汞に急に変化するとは考えられない、甘汞か何かなら又別の考えようもあるがね。とすると誰かが、薬局の封印のまま中味をすりかえたと見なければならぬ。その手品をやつた奴がまず犯人だという事になるね。無論、たしか
前へ
次へ
全142ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング