たのである。
「やあお待ちどおさま」
 彼はこう云いながら、靴を脱ぎはじめた。
「今聞いたらね、検事局からは奥山検事が来たんだそうだ。ほら君もよく知つてるだろう。いつか牛込の老婆殺しの事件の時に君にも紹介した事がある人さ。丁度よかつたよ」
 二人は案内されるままに上ると、すぐ右手にある応接間に通されたが、まもなくやさしい絹ずれの音がして、昨日のひろ子が入口にあらわれた。
「先生、よく来て下さいました……とうとう大変な事が起りましたの……」
 彼女はこう云つたが、見ると昨日とはまつたくようすが変つていた。顔の化粧もろくろくしていないが、泣きはらした美しい眼が、彼女に更に一層のいたましい妖婉さを与えている。

   悲劇を繞る人々

      1

「とんだ事でした。ほんとにとんでもない事でした。しかし、まだお母様のおなくなりになつた原因ははつきり判らないと思いますが、あるいは何か過つて呑まれたのかも知れません。が、万一、お母様が誰かに……」
 藤枝はここまできて口をつぐんでしまつた。
 母を失つたばかりのこのやさしい女性の前で、その次の言葉をはつきり口に出す事は、さすがの女性蔑視主義者である彼にも出来なかつたらしい。
 いや、それほど、この時のひろ子の有様はいたましかつたのである。
「これは、つい余りの事に度を失つてしまつて、昨日のお礼も申し上げませんでした。それにあの小川さん、昨日はまたわざわざお送り下さいまして、私はおかげ様で無事に帰りましたけれど……母が……母がとんだ事になりまして……」
 彼女はこう云つて、またもハンケチを目にあてたのである。
「お礼どころじやありません。……私改めておくやみを申し上げます」
 私はやつとこれだけを云つたけれども、なんと云つてひろ子を慰めてやつていいか全く途方にくれてしまつた。
「もし何かこれが犯罪ならば、きつとこの藤枝が仇を討つて見せます。そうです。きつとです」
 彼が、きつとなつてこう云うとひろ子は顔を上げてたのもしそうに彼を見た。
 こういう場面によく出会《でくわ》すらしい藤枝も、ひろ子を慰めるのにはちよつと困つたとみえ、しばらく、ばつのわるいような沈黙がつづいた。
 しかしこの沈黙は折よく次の瞬間にうまく破られた。
 ドアをノックする音がきこえると同時に、入口から司法主任がはいつて来たのである。「や、藤枝さん、小川さん
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