殺人狂の話
(欧米犯罪実話)
浜尾四郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仮令《たとえ》

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(例)[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
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 殺人という大罪を犯すには種々な動機がある。一番多いのは、怨恨とそれから利慾だろう。
 怨みで人を殺すもの、金をとろう又は財産を得ようとして人を殺すもの、これ等はずい分数もあり日常の新聞紙上などにも盛んに出されるところだから一般にその理由はうなずく事が出来る。
 ところがここに何等左様な原因がなくて人殺しを敢行する人間がある。彼らに「何故、人殺しをしたか」ときけば彼らはただ「殺したかったから殺した」とか或は「ただふらふらと殺したくなったからやっつけたんだ」と答えるのである。即ち「殺人の為の殺人」を行う手合で、まことに物騒千万な人達であり、犠牲者こそいいめいわくと云いたいようなものだ。
 怨みの為に殺される人、金をもっていて殺される人などは、仮令《たとえ》自分達に責任はないにしろ一応犠牲者の方にも殺される理由があるのだが、殺人狂の被害者に至っては、まったく出たとこ勝負、偶然中の偶然、殺人狂に出会したのが一生の不運というより外云いようがない。
 殺人の為に殺人をする殺人狂の中にも、裁判の結果、全く狂人として無罪を言渡される者と、一人前の人間として死刑台に上るものとの二種類がある。以下その例を少しく記して見よう。

     一、ヴァッヘル事件

 南欧の「ジャック・ゼ・リッパー」と称せられたヴァッヘルは、まさしく殺人狂の一人であった。
 彼が全くの狂人であったかどうかは、専門家の間に可なりの問題を惹起した。
 仏国《ふつこく》ボーフォールに生れた彼は、一八九〇年ブサンソンの第六十聯隊に勤務したが既にその頃から野性を発揮して同僚達に恐れられはじめた。
 除隊間際に、一人の若い女と恋に陥ったが嫉妬の為に、彼女をピストルで射撃し(但し、殺すには至らず)自分はその場で自殺をはかったが之も未遂に終った。ただこの時、自分のピストルで右耳を射たので以後、右耳は全くきこえなくなり、顔面に時々はげしい痙攣《けいれん》をおこすようになってしまった。
 其後も彼はだんだん乱暴を働き暴行をするのでとうとう法廷につれ出されるかわりに、サンロベールの気狂病院に入れられるに至った。
 若し彼が此のままいつまでも病院にはいって居たならば彼の為にも他人の為にも、之から犯すような大きな不幸は起らなかったであろうが、不幸にして――然りまことに不幸な事には、一八九四年の五月一日に、ヴァッヘルは全治せるものとして退院を許されたのである。
 彼は此の時から、「惨劇の浮浪者」となりおおせたのだ。
 一八九六年三月まで、オート・ロアルやコート・ドールなどを浮浪した揚句《あげく》、ついにショーモンまで来たがそこで或る男を殴って捕まり、ボーヂェの刑務所に入れられた。
 ところがこの時までに彼は既に八つの犯罪を行って来たのであったが、その一つも彼に嫌疑がかかっていなかった。
 その中の最後のものは、三月一日に、ドルーという十四歳になる少女を襲った犯罪であった。
 けれども、右に云う通り、彼に嫌疑がかかって居なかったので、四月四日になってヴァッヘルは又釈放されたのである。
 それから再び彼の恐るべき浮浪がはじまりそれがとうとう一八九七年の八月七日までつづいたが、この日彼は殺人未遂の罪で捕まったのであった。
 当時のジュルナール・ド・ヴァランスから記事を抜粋すると次のような事実が行われた。
「一八九七年八月七日午前九時頃、プランシェという人妻がレペリエという森の所を通りかかると、突然物かげから鳥打帽をかぶり手に鉄の棒をもった男がおどり出し、いきなりプランシェの咽喉をつかんで引仆《ひきたお》した。
 彼女は死物狂でようやく此の男の手から逃れたが、丁度その時現場にいたプランシェ夫人の七歳と四歳になる児が驚いて悲鳴をあげながら近くに働いていた父親のところにかけつけた。ムシュウ・プランシェはその男の気のつかない所で前から働いていたのだ。
 プランシェ夫人も必死になって夫の方に逃走するとその男――ヴァッヘル――もあとから追いかけて来、とうとうムシュウ・プランシェとまともに向い合った。おそろしい格闘が二人の間に行われたが、その間に、フェルナンドという七歳になる児は勇敢にも石を取ってヴァッヘルに向い父の加勢をはじめた。
 一時はヴァッヘルの力強く、戦はどうなるかと見えたが、幸にもその近くにいた樵夫《きこり》が二三名かけつけ、とうとうその男を取押える事が出来たのである」
 彼はそれからツールノンの獄に送られ、そこのマヂストレートに調べられたが、単なる傷害罪という名のもとに数ヶ月の獄舎生活をはじめる事になったのである。
 然し当局は、彼の過去について捜査を開始した。彼がプランシェ夫人をおそった動機から考えて似たような犯罪があるにちがいないとにらんだのである。
 ジュルナール・ド・ヴァランスの記事はベリーのマジストレートのフーケー氏の注意を著しくひいた。実にフーケー氏は、二年前即ち一八九五年の八月にブノンスで行われた殺人事件の犯人を極力捜査して空しく手をひいた人である。ブノンスの殺人事件というのは、牛飼いのヴィクトル・ポルタイエという少年が、のどを切裂かれ腹をえぐられて見るも無惨な死体となって牧場で見出された、という事件であった。当時嫌疑のかかったのは、アルデシュという浮浪人で、その惨劇の前夜、現場付近をうろついていたという男によく似ていたのだった。而てこの男の人相は又、一八九五年五月にオー・ドュ・シェーンという所で十八歳になるオーギュスチヌ・モルチュリューという少女の殺人犯人の人相にもあてはまっていた。
 そこでベリーのマヂストレートは直《ただち》にヴァッヘルを送らして自ら之を訊問したが、彼はついにヴァッヘルをして恐るべき犯罪を自白せしめたのである。その自白によると、ヴァッヘルは、ブノンス事件の犯人、モルチュリューの犯人であるばかりではなかった。
(少女モルチュリューの犯人として、グレニエという男が逮捕され、後許されはしたけれども彼は永い間世の批難を受けなければならなかった)
 ヴァッヘルの十八の犯罪を一つ一つここに記す事は困難であるからして、ここにはただその犯罪時と場所と、犠牲者の名とを記すにとどめよう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(1)[#「(1)」は縦中横] 一八九四年、ボールペールに於いて。ユーヂェニー・デロムという婦人に暴行の後惨殺。右胸部を引裂いてあった。
(2)[#「(2)」は縦中横] 同年十一月二十日、ヴィドーパンに於いて。ルイズ・マルセルという婦人ののどを切裂き胸を切って惨殺。
(3)[#「(3)」は縦中横] 一八九五年五月十二日、オーギュスチヌ・モルチュリューという少女の咽喉をさき胸部を切開きて殺害。
(4)[#「(4)」は縦中横] 同年四月二十五日、サンツールに於いて。モーランという寡婦(五十八歳になる者)に暴行を加う。
(5)[#「(5)」は縦中横] 同年九月二十二日、トリマに於いて。アリーン・アレーズという十六歳の少女に暴行を加えた後殺害。
(6)[#「(6)」は縦中横] 同年九月二十九日、サン・テチェン・ド・ブーローニュに於いて。ピエール・マツリーという少年の腹を切裂きて惨殺。
(7)[#「(7)」は縦中横] 一八九六年三月一日、ノアイエンに於いて。マリー・ドルーという十四歳の少女を襲ったが偶然の事で之は暴行に至らず。
(8)[#「(8)」は縦中横] 同年九月十日、ビュセに於いて。ルリューという十九歳の婦人を襲い咽喉を切る。この事件は強盗殺人。
(9)[#「(9)」は縦中横] 一八九六年十月一日、ヴァラン・サントノレーに於いて。ロージヌ・ロヂェ(十四歳の少女)に暴行の後殺害。
(10)[#「(10)」は縦中横] 一八九七年五月十五日、タサン・ラ・ドミ・リューンに於いて。クローダン・ボーピエという若者を殺害。被害者の骨は井戸の中から発見された。
(11)[#「(11)」は縦中横] 同年六月十八日、クルジューに於いて。ピエル・ラヴリーという十三歳になる子を惨殺。
[#ここで字下げ終わり]
 之らの恐るべき犯罪は凡て野原で、多くは夜間に行われた。即ちヴァッヘルは昼間は森や林のかげにかくれ、夜になると狼のように飛び出して人をおそったのであった。
 一八九八年、これらの事件は公訴の提起を見、十月二十六日にヴァッヘルは重罪裁判所で公に取調べられた。
 被告人は三十歳位、非常に神経質に見えた。常に目は動いて一ヶ所を見つめない。何となく一見不気味に見えたのである。
 被告人に対する起訴状が読み上げられている間、彼は絶えず手足を動かし、顔を動かしたりして全く気狂いの有様であった。
 ヴァッヘルは凡ての事実を認めた。而て彼は云った。
「私は、私を裁く人々に対して云いたい。私はただ神に対して答えるべきであるという事を! 私は単に、神の一つの愚かな機械であったにすぎない。私は九歳の時、狂犬にかまれた事があるが、それから以後、特に強い太陽の光の下で、不意に狂気の発作におそわれる事があるがその時は全く夢中で何が何だか少しもわからない。その時は、夢中で誰でもまずそこに来た奴をおそい、之を殺すのだ。陪審員諸君よ、私がいいたいのはただ之だけだ。私は、私を自由にしてくれた医者達の犠牲にすぎないのである」
 その青年時代に無政府主義を信奉していたそうだが、と問われた時、彼はこういう答をした。
「私はそんなアナーキストと関係はない。私は実に神のアナーキストである」と。
 十月二十八日、彼に死刑の判決が下された。医師の鑑定によれば彼は、精神病者ではない。即ち法律上の責任を負うべきものと認められたのである。
 翌年即ち一八九九年一月一日、死刑は執行された。彼はギロチンの前に立って、気を失ってしまった。死刑台の所まで人にかつがれて行かなければならなかったのである。
 ヴァッヘルの如きはたしかに殺人狂の一人であろう。彼の頭が果して責任能力があったかどうかは判らないけれども、彼が最後に法廷で云った言葉「自由にしてくれた医師の犠牲」だと云ったあの言葉はたしかに結果に於いては事実となっていた。
 而もその犠牲は彼以外にも余りに多かったのである。

     二、メネルー事件

 一八八〇年、グロス・カイユーのルー・ド・グルネル一五五番地は、デューという夫婦が住んでいて、二人の間に、ルイズという四歳になる可愛らしい少女がいた。
 四月十五日、デュー夫人は、夫が三週間も前から病気で入院しているのでそれを見舞って買物にまわり帰宅して見ると、ルイズの姿が見えない。
「ねえアンリエッタ! ルイズがいないよ。ローネルさんの所へ行って見ておいで。ごはんの後であそこに行っていたからまだ行ってると見えるよ」
 デュー夫人はこう云ってそばにいた長女をしてルイズを探しにやった。が、ルイズはローネル夫人の所にはいないし、ローネル夫人は朝からうちにはいないという報告をもたらして戻って来た。
「では、メネルーさんの所だよきっと。私が行って見て来よう」
 デュー夫人は、同じ家の四階に住んでいるメネルーの所をたずねたのである。
 メネルーという夫婦は相当年もとっていて夫は役所に勤め、妻は煙草工場で働いて居り、デュー夫婦とも可なり懇意で、殊にルイズを大へんかわいがってよく菓子などをくれたりするので、ルイズの方でもよくなついていたのである。
 この夫婦の間に、ルイという廿歳になる男子があったが、この青年は親と全くちがった性質の男だった。三年程、汽船にボーイとして働いていたが、後、パリに戻ってからは、全くなまけものとなり、毎日毎日無為にくらし、両親の住んでいる室の上(即ち五階)に一室を占領していつもここにふらふらしていたのであった。
 デュー夫人はまず四階のメネルー夫妻の室の戸を叩いたが返事がない。
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