した。
「私はそんなアナーキストと関係はない。私は実に神のアナーキストである」と。
 十月二十八日、彼に死刑の判決が下された。医師の鑑定によれば彼は、精神病者ではない。即ち法律上の責任を負うべきものと認められたのである。
 翌年即ち一八九九年一月一日、死刑は執行された。彼はギロチンの前に立って、気を失ってしまった。死刑台の所まで人にかつがれて行かなければならなかったのである。
 ヴァッヘルの如きはたしかに殺人狂の一人であろう。彼の頭が果して責任能力があったかどうかは判らないけれども、彼が最後に法廷で云った言葉「自由にしてくれた医師の犠牲」だと云ったあの言葉はたしかに結果に於いては事実となっていた。
 而もその犠牲は彼以外にも余りに多かったのである。

     二、メネルー事件

 一八八〇年、グロス・カイユーのルー・ド・グルネル一五五番地は、デューという夫婦が住んでいて、二人の間に、ルイズという四歳になる可愛らしい少女がいた。
 四月十五日、デュー夫人は、夫が三週間も前から病気で入院しているのでそれを見舞って買物にまわり帰宅して見ると、ルイズの姿が見えない。
「ねえアンリエッタ! ルイズがいないよ。ローネルさんの所へ行って見ておいで。ごはんの後であそこに行っていたからまだ行ってると見えるよ」
 デュー夫人はこう云ってそばにいた長女をしてルイズを探しにやった。が、ルイズはローネル夫人の所にはいないし、ローネル夫人は朝からうちにはいないという報告をもたらして戻って来た。
「では、メネルーさんの所だよきっと。私が行って見て来よう」
 デュー夫人は、同じ家の四階に住んでいるメネルーの所をたずねたのである。
 メネルーという夫婦は相当年もとっていて夫は役所に勤め、妻は煙草工場で働いて居り、デュー夫婦とも可なり懇意で、殊にルイズを大へんかわいがってよく菓子などをくれたりするので、ルイズの方でもよくなついていたのである。
 この夫婦の間に、ルイという廿歳になる男子があったが、この青年は親と全くちがった性質の男だった。三年程、汽船にボーイとして働いていたが、後、パリに戻ってからは、全くなまけものとなり、毎日毎日無為にくらし、両親の住んでいる室の上(即ち五階)に一室を占領していつもここにふらふらしていたのであった。
 デュー夫人はまず四階のメネルー夫妻の室の戸を叩いたが返事がない。まだどっちも戻らないらしいので、彼女は一階上って、ルイ・メネルーの戸を叩いた。
 デュー夫人が娘の事をきくと、中から戸をあけたばかりのルイ・メネルーは落付いた声で、
「ルイズさんは今日は一度もここへは見えませんよ」
 と答えた。
 そこでデュー夫人は同じフローアの戸を片端からノックしてまわったが一軒も人が帰ってはいなかった。手を空《むなし》うしてこの母は下まで降りて改めて門番の所へ行って見ると此の日は門番の娘が母親の代りに勤めていたが、終日ルイズの姿を見なかったという答をしたのである。
 心配になって来たデュー夫人はそれから、リュー・ド・グルネルの家を戸毎に訪ねて廻ったけれどもルイズのようすは全くわからなかった。そこで彼女はとうとう警察に捜索を依頼して稍《やや》安心して帰った。というのは、巴里《パリ》で迷児になる者は一日に何人あるか判らないけれど二三時間も経てば必ず警察の手で発見されるのが例であったから。
 警察は、彼女に、午後八時に再び出頭するようにと命じて帰宅させた。
 午後八時にデュー夫人は命令通り再び警察に出頭したがその時、門番だの其他の人々が、メネルーの息子は平生子供らに「おあし」をやってはしきりに手なずけている、といっているという申立をやった。
 勿論この噂だけでは何の証拠にもならず、又それが事実としてもまだ何らメネルーに嫌疑をかけるべき直接証拠にならないので、警察では、まず、ルイズがメネルーの処にいるかどうか十分たしかめるようにとデュー夫人に注意した。
 そこでデュー夫人は帰宅するとメネルーに又ルイズの事をきいたけれども、依然として彼らは全くルイズをその日見た事はないという事を明かに答えたのである。
 そこでデュー夫人は又一階上って若いメネルーの部屋に行って戸をたたいた。
 息子のメネルーはもうベッドにはいっていたが、デュー夫人が戸を叩くと、中から、
「何しに来たんです。ルイズの事なんか知らないとさっきも云ったじゃありませんか」
 とつっけんどんに云ったが、彼女がしきりと戸を開けてくれというととうとう戸をあけたのでデュー夫人は、遠慮なく室内にはいって行ったけれども、メネルーの外は誰もそこにはいない。彼女はひざをついてベッドの下や何かを見たけれどやはりそこにも誰もかくれてはいなかった。
「さあ、もうこれで十分でしょう。気がすんだでしょう。さっさと帰って下
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