私は一年の間江戸中を野良犬のように歩き廻りました。今から思えばあの時お白洲で、『偽り者め、騙りめ』と仰言った御奉行様のあのお声が江戸中の人々の口からこだまして響いて来るのでございます。私はもう野良犬の様な生き方さえも出来なくなりました。雨を凌《しの》ぐ軒の端からさえも追い払われます。どうして生きて居られましょう。私は死にます。死んで此の苦しみから逃れます。唯、死ぬ前に一言、『私は騙りではない、真実の母だ。騙りと云われたのは奉行様なのだ』と申しておきたいのでございます。私が敗《まけ》公事になりました事に就いては愚痴を申しますまい。けれど御奉行様に一ことお恨みを申し上げておきます。あの時御奉行様は何と仰言いましたか。『斯なる上は其の方達両名で中の子を引っ張るより外裁きのつけ方はあるまい。首尾よく?ォ勝った者に其の子を渡すぞ』と仰せられたではございませんか。私は唯あの御一言を信じたのでございます。お上に偽りはある筈のものではない。此処で此の子を放したが最後、もう決して此の子は自分の手に戻っては来ないのだ。斯う堅く信じた私は、石に噛りついても子を引っ張らねばならぬと思ったのでございます。あの子が痛みに堪え難《かね》て泣き出した時、私ももとより泣きたかったのでございます。けれども一時の痛みが何でございましょう、私が手を放せばあの子は未来永劫私の許には参らないのでございます。御奉行様は御自分でお命じになった言葉が一人の母親にどれだけの決心をさせたか御承知がないのでございます。偽ったのは私ではございませぬ。御奉行様でございます。天下の御法でございます」
[#ここで字下げ終わり]
大体右の様なものでございましたろう。私も始めて御奉行様のお顔色の並ならぬ理由を存じたように思いました。
けれども御奉行様がずっと陰気におなり遊ばすようになりましたのは、未だ此の事のあった頃ではございませんでした。その年の冬からでございます。あなた様方もご承知の通り村井勘作という極悪人がお処刑になった事がございます。あの村井という罪人は随分色々な悪事を働いた者でございますが御奉行様御自身でお調べ中、飛んでもない罪を白状致したのでございました。
あれは何年《いつ》頃でございましたでしょうか、四谷辺で或る後家が殺された事がございます。お上で色々とお調べの末、色恋の果の出来事と申す事になり、後家が生前|懇《
前へ
次へ
全15ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング