して泥棒泥棒と叫んだわけなのだ。
 僕の望みは美事に遂げられた。そこにはただ百分の一秒ぐらいの時の差があるばかりではないか。賊が蓉子を殺した後僕が賊を殺したかその最中に殺したか、誰が知ろう。……見給え世人はまったく僕が力およばずして妻を死なしたと思っている。……嗤《わら》うべきではないか。僕は力およばずどころではない。故意に妻を死なせたんだ。
 山本、これがあの夜の恐ろしいできごとだったのだ。」
 大川は一気にこう云ってしまうと探るような眼付で山本をながめた。
 夕闇はきた。部屋はまったくくらくなった。闇の中に二人は相対している。
 聞き終った山本が突然、病人の傍においてある水をぐっと呑んだ。そうして云った。
「恐ろしい話だ。恐ろしい事実だ。……しかし君が死ぬ気になったのはどうしたのだ。」
「さ、そこなんだ。僕が君に云おうとしているのは。いいか? 僕のいうことは矛盾だらけかもしれない。しかしその矛盾だらけなのが人間の心なんだから了解してくれ。
 僕はああやって妻の殺されるのを見ていた。否、妻を殺さした。これが法律上どういうことになるかは知らない。しかし道徳上では十分責任を負うべきこと疑いない。
 ところで僕は、妻の死ぬのを見てからしばらくは自分のやったことに少しも悔を感じなかった。けれどもあれから十日程たつと、またまた深い苦しみに襲われはじめたのだ。
 僕はさきにも云った通り、芸術家の直観を信じた。夫としての直観を信じた。証拠をあざわらった。けれど、妻の死後……ことにあの断末魔の妻の顔を見てから、自分の疑いがまったくの邪推ではなかったかと思い始めたのだ。
 もし蓉子がほんとに僕を愛していたなら、もし久子がまったく僕の子だったなら? 僕はどうすればよいのだ? 僕はとんでもないことをしたのだ。罪なき妻を疑っていたのだ。あの愛《いと》しい蓉子を疑っていたのだ。しかも僕は――おお僕こそ呪われてあれ! あの野獣のような兇賊に妻を惨殺さしたのだ、僕のこの両眼の前で! しかも救うことができたのに※[#感嘆符三つ、98−上−22]」
 蓉子が僕と別居しようと思っていたことは明かだった。しかしそれが不貞ということになるだろうか。僕は取り返しのつかぬことをしてしまったのだ。
 こう思ってから僕は久子と暮すのが堪えられなくなった。まず久子を妻の親にあずけて一人でくらすことにした。ところが毎夜のように断末魔の妻の顔が見えるのだ。僕がまちがっていたか? こう悩みつづけて半年は生きてきたのだ。けれども僕にはもう生は堪えられなくなったのだ。妻は地獄にいる。僕に陥《おと》されたんだ。恨め! 恨め! 僕も地獄に行く! こういう決意をしてから僕はたびたび死ぬ時を狙《ねら》った。そうしてついに決行したのだ。……蓉子が不貞であったろうとそうでなかったろうと僕には生きては行かれないのだ。……僕はもう死ぬ、しかし最後に君にはっきりききたい! 君の奉ずる聖なる科学の名においてはっきりきく、僕には子を作る能力があるのか。久子はたしかに僕の子だろうか?」
 そこには不気味な沈黙がまた襲いきたった。闇の中でも大川の苦しげな呼吸ははっきりときかれ得る。しかるに、大川よりいっそう亢奮したらしいのは山本であった。彼は医師としての己れを忘れたように見えた。彼は自分が病人の前に立っていることすら忘れたかのように見えた。
 突然山本はベッドの側に近づいて、大川の右手をつかんだ。山本の手はなぜかふるえている。絞るように山本が云った。
「大川、よくきいてくれ。君の生命はもう危いんだぞ。死ぬまぎわになってそれだけの重大なことをきくのに、君はなぜほんとうのことを云わないんだ? 君は妻の殺されるのを見ていたと云った。君は妻を賊に殺させたと云った。しかし君は自分が妻を殺したとは云わない。なぜはっきり云わないのだ? 大川! 君は賊を第一に殺して、それから妻を殺したんだろう※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 云う方もきく方も必死だった。つかまれた大川の手もつかんでいる山本の手も、ぶるぶると音をたてるまでにふるえた。
「大川、僕は君になんでもいう、だから君も最後にほんとうのことを云って死んでくれ!」
 氷のような静寂を破って、大川のふるえをおびた、わりに落ちついた声がひびいた。
「そうか、君は知っていたのか。僕がわるかった。僕がわるかった。死ぬ前なのに僕はなんということだ。僕が殺したのだ。僕が蓉子を殺したのだ。間違いはないほんとうのことをいうから聞いてくれ。
 あの夜、僕は一時頃に床に入った。しかしどうして眠れよう。ピストルを出して妻を殺そうかどうしようかと迷っていた僕だ。僕はね返りばかりしながら床中で悶々としていた。ところが三時頃だったろう。台所の方で妙な音がするのだ。しかし頭の中に悩みを持っていた僕は
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