う。君の答えもあいまいなものなのだ。僕の子かもしれないのだ。僕はこうやって妻が妊娠してから約二年あまり苦悶に苦悶を重ねてきたのだ。
 どうにかして証拠を捕えたい、こう念じたが、蓉子は完全に自分の行為をかくしていた。僕は更に君以外の医者に自分の身体を診て貰おうかとも考えた。しかし一方から思えば、久子が僕の子でないことが判ったからとてあとはどうなるんだ。蓉子を知っている僕は彼女が素直に自白するとは信じなかった。いやたとえ自白したところでどうするんだ?
 もし蓉子が米倉を愛していると自白したらどうなるのだ。久子が米倉の子だということが判ったからとて幸福になるのか。法律はもちろんある結果をつけてくれるだろう。けれど、法律がどう解決をつけようがこの深刻な問題が少しでもよくなるのか。山本。妻を奪われた夫は一体どうすればいいんだ!」
「…………」
「誰でも考えるだろうが一番はじめ僕の頭に浮んだことは妻と男をいかなる手段ででもやっつけることだ。けれど僕は米倉と自分とを比べてみた。もしなんらかの方法で米倉をやっつけるとすれば、世間はどう思うだろう。何も知らぬ世間は彼の盛名に対する僕の嫉妬だとしか考えぬであろう。そう思われることは堪えられないのだ。それに、実に矛盾した考えだが、直観は直観としても、僕はどうにでもして米倉が姦夫《かんぷ》であるという確信と証拠を得たい気がしていたのだ。僕は苦悶した。蓉子にも米倉にも何も云わず一人で苦しんだんだ。結局救われる道は一つしかない。芸術に精進することだ。そうして米倉の盛名を一撃に蹴落してくれることだ。そうすれば米倉に対して立派に復讐もできるし、蓉子もまたふたたび僕のものになるに違いない。
 こう決心して僕は終日ペンをとった。しかしもう駄目だ。僕はだめだ。何もできぬ、何も書けない。僕はふたたび絶望の淵に沈んだ。こうやってとうとう昨年の夏まできてしまったのだ。」
「そうか、そんな事情があったのか。僕は少しも知らなかった。」山本はこう云ったが、それはまるで作りつけの人形が、機械で物を云っているような、きわめて洞《うつ》ろな調子であった。
「僕の家庭はほとんど家庭をなしていなかった。僕と妻とはおたがいに終日物を云わないでいる日の方が多くなってきた。もういてもたってもいられないという時になった。蓉子もいよいよ僕を見捨てる決心をしたらしい。蓉子は夫として、芸術家としての僕にとうとう愛想をつかしてしまったのだ。
 たしか昨年の九月の十日頃だったと思う、蓉子が不意に僕と別々に生活してみようと云い出した。もう一度舞台に立ちたい、というのが表面の口実なのだ。僕はおとなしくそれをきいていた。そうして何も答えずにおいた。翌日になると蓉子は、もうその問題を出さなかった。だから表向きはきわめて平和にその時は過ぎてしまった。が、僕の心の中は嵐のようだった。
 蓉子が同じ問題をふたたびまじめに提出したのは、昨年の十月十九日、すなわちあの事件のちょうど前夜なんだ。蓉子はその時、自分のことをはっきり僕に云った。僕は確信を……」
「何? はっきり云った?」
「うん、十九日の夕食過ぎだ。蓉子がまた、改まって、僕に別居問題をもち出したんだ。もう堪えられなかった。僕はこうきいてやった。
『お前が俺と別れようというには、他に理由があるんだろう。たいてい俺も察している。はっきり云ってくれないか。』
 すると蓉子はこう云うのだ。
『あると云えばあることはあるんです。けれど、そんなことおききになったって仕方がありませんわ。』
 僕はこれをきいてかっとなった。
『馬鹿! 俺を盲目《めくら》だと思ってやがる。一体久子は誰の子だ!』
『何を云ってらっしゃるんです。』
 蓉子はこういうと黙ってしまった。山本。これがほんとに僕の子ならすぐ答えるはずじゃないか。蓉子が何も云わないのは、いや、云えないのは、久子が僕の子でないという証拠じゃないか。」
「それからどうなったね。」
「僕はあまり不愉快だったから、黙って自分の部屋に戻ったんだ。そうして割れるように痛む頭を押えて、机に向って、どうかして心を落つけようと努力した。
 そのうち蓉子も黙って床を敷いていた、僕は夜、側《そば》に人がいては仕事ができないので、妻子の隣室でねることにしてある。それで自分も蓉子に床をとらせて黙ったまま床に入ったのだ。それがちょうど十九日の十時頃だったろう。
 さすがに蓉子もすぐはねつけなかったらしい。僕はしばらく床にはいっていたが、とうていそのまま眠れぬので、また机に向っていろいろ考えにふけったが、結局、蓉子を殺そう、という決心しかもち得なかった。
 そうだ、この苦悶から逃れる方法は、ただ蓉子を殺すより他にはない。そうして自分も死ぬことだ、とこう思って僕は、ただそればかりを考えて、押入れからかつて
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