名人上手に聴く
野呂栄太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)定石《じょうせき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)革命的[#「革命的」に「×」の傍記]理論
×:伏せ字
(例)革命的[#「革命的」に「×」の傍記]理論
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もう三、四カ月も前であったと思うが、偶然の機会に、木村八段の将棋講座のラジオ放送を聞いた。飛車落ち定石《じょうせき》の説明のようであったが、私の聞いたのはその終わりの五、六分間である。木村八段はそこで、「上手《じょうず》に対して飛車落ち程度でさせるようになると、そろそろ定石を無視して自己流の差し方をするものであるが、それは厳重に慎まねばならぬ。よく人は、こちらがいくら定石通りに差そうと思っても、相手方がそれに応ずるように差してこないから、定石など実践においては役に立たない、というが、これは大きな心得違いだ。飛車落ちの対局だからといって、飛車落ちの定石がそのまま適用されるものではない。お互いに定石を紋切り型に繰り返すだけなら何の変哲もないものになってしまうだろう。上達して名人上手と言われるようになればなるほど、ますます変化を試みるが、それは決して定石を無視して差すのではなくして、定石に基づき、その上で変化を試みるのであって、いわば定石をさらに発展させて新しい定石を生み出すのである。実戦を重ねるに従って定石を始めて活用できるようになるのだ」というような意味のことを言われたと記憶するが、この木村八段のご注意は非常に深い感銘を私に与えた。
それぞれ方面は異なっても、その道の名人上手と言われるほどの人びとの言動には、すべての人の心を打つ、教えられるところの多いものがある。木村義雄八段の注意のごとき、われわれマルクス学徒にとっても、いちいち味わうべき教訓に満ちている。マルクス、レーニンの学説を勝手に公式化して、それを機械的に現実問題の解決に適用せんとする者の多い反面において、またマルクス、レーニンの学説の公式的適用が実際問題の解決、現実の闘争の指導においてまったく無力であるということから、直ちに理論を軽視し、無視して偏狭素朴なるいわゆる実践主義に陥る者の多いことは、私らのしばしば見るところである。マルクス、レーニンの学説は、いわゆる悉《ことごと》く書を信ずれば書なきに如《し》かずというような不
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