確かな議論とは本質的に異なるが、といってマルクス、レーニンの学説の公式的適用ほどマルクス、レーニンの学説に反したやり方はない。
 レーニンも言っているように、理論は灰色であるが、実践は緑色である。もしわれわれにして、理論を理論として、すなわち単なる知識として覚えるにすぎないならば、それはかえってわれわれの行動を束縛する邪魔物とさえなるであろう。しかしながら、革命的[#「革命的」に「×」の傍記]理論なくして革命[#「革命」に「×」の傍記]運動はあり得ない。革命[#「革命」に「×」の傍記]的理論によって武装された頭部、マルクス、レーニンの理論によって変革された頭脳の正しい指導によって初めて、大衆運動の自然発生的な革命的[#「革命的」に「×」の傍記]高揚性は正しく組織化され、発展せしめられて偉大なる革命[#「革命」に「×」の傍記]を成就することになるのである。
 われわれがマルクス、レーニンの学説を研究するのは、マルクス、レーニンの片言隻句《へんげんせっく》を暗記したり、その理論を公式的に鵜呑みにすることではない。いわんやお偉いマルクス学者諸氏やいわゆるマルクス批評家諸公のように物識りになって、マルクス、レーニンの学説を切売りしたり、そのまがい[#「まがい」に傍点]物を密造したりすることではない。われわれにとって必要なことは、まず、それによってわれわれの頭脳のはたらきを根本的に改造し、事物の観方を徹底的に変革するにある。しかもこのことは、われわれがハッキリと、プロレタリアートの立場に立った時にのみ可能である。なぜなら、プロレタリアートこそは、鎖以外に失う何ものも持たぬところの、従って、現支配体制の崩壊[#「崩壊」に「×」の傍記]に何らの未練をも感ずることなく最後まで革命的[#「革命的」に「×」の傍記]たり得る唯一の階級だからである。階級としてのプロレタリアートの立場こそ、何ものにも捉われず、何ものをも恐れず、あくまで真理の探究に忠実たり得る唯一の科学的立場である。マルクス、レーニンの学説は、実にこの階級としてのプロレタリアートの立場に立ってなされた現支配体制に対する科学的研究と、その革命的[#「革命的」に「×」の傍記]実践との所産なのである。だからまたそれは、プロレタリア解放の唯一の指導理論であるとともに、階級闘争の実践[#「実践」に「×」の傍記]に活用されることによって
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