小川芋銭先生と私
野口雨情
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)沼垂《ぬつたり》の
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)長井|雲坪《うんぺい》先生
−−
小川芋銭先生は、もとは牛里と云ふ雅号で、子規居士時代から俳句を詠んで居られた。牛里とは常陸牛久沼の里の地名から付けた雅号であらうと思はれる。私が、芋銭先生を知つたのは画家としてよりは、俳人として知つて居たので、芋銭先生が画を描くとは知らなかつた。「あの人が画を描くのか」と思つた位ゐであつた。
芋銭先生を初めて知つたのは恰度取手の在に江野村と言ふところがあつて、そこに普門院と云ふ寺があり、その寺は今でもあると思はれるが、そこに福田井村氏が居られた。井村氏は俳句が上手で、たしか子規居士の「春夏秋冬」にも俳句が入選されて居たと思ふ。この人が回覧誌を始めて居て、お手紙などをいただいた。それは今から四十年も前のことであつた。
その頃の俳人で「いばらき」の記者をして居た藤田順吉氏、この人は非常に俳句が好きであつた。子供であつた私は、かうした人と俳句を作ることが、恥しく思つて居た。さうす
次へ
全10ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
野口 雨情 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング