。話に聞けば雲坪先生の奥さんが、さうして描いた絵を
「米がないから、絵を買つて下さい」
と、売つて歩いてゐたのは人目を引いたさうだ。
 雲坪先生は新潟の沼垂《ぬつたり》の地へ婿に行つた。これは、明治時代の前であつた。婿に行つた雲坪は医者になりたいからとて、養家の人に語つて長崎へ飄然と勉強に出掛けた。その後、杳《よう》として婚家へも何処へも音信がない。もう此世に居るのか、居らぬのか解らないと人々は思つて居たさうだ。すると二十二三年経て雲坪先生ぶらりと乞食になつて戻つて来られた。もうその時は養父母は居らず、奥さんが雲坪が長崎へ発足された当時残された二人の子、男一人女一人を育てて居た。そこへ戻つて来たのであつた。雲坪先生は、長崎へ渡つて鉄扇の門下となつて、絵画の研究に没頭し、支那へ渡つて稽古をして居た。雲坪先生は毎朝蘭を描いた。その蘭がうまく描けると一日中気持がよかつた。もし悪く描けた日はその日中気持が悪いと云ふことで、実に古今を通じて蘭描きの名人であつた。蘭を描いては鉄扇も適はなかつた。併し致方ないもので、さうした名人を誰れも知らなかつた。
 夏目漱石先生のところに樗蔭と言ふ人が、どこから手に入れたのか一抱えの絵を持ち込んだので、漱石先生は一々それを見て居たが、
「これも駄目だ。あれも駄目だ。どれを見ても皆、銭を欲しがつて描いて居るので、ろくなものはない」
などと言つて居た。すると隅に押しつけてある絵があつた。先生は
「それを見せろ」
と言つた。樗蔭氏は、
「これはつまらぬものです。おまけに貰つて来たのですから駄目です」
と頭からあきらめて居た。漱石先生がそれを見ると、実に気品の高い蘭であつた。
「これはよい。まだくれた人のところへ行つたらあるだらう、これこそ本当の人格の作だ」
 漱石先生はしきりにほめたので、樗蔭氏が貰つた人の所へ行つて聞くと、長崎へ行つたらあるだらうとの事であつた。樗蔭氏は、このことを中央公論へ書いた。私は夏目先生を訪ふたことがあつたが、その時樗蔭氏にもお目にかかつたのである。樗蔭氏は夏目先生より後で逝去された。このことがあつて以来、雲坪先生の名は世に知られた。そして雲坪の研究者も現はれて来た。私が新潟へ行つた時、私の話もすんで、人々は私のための晩餐会をすることになつた。海水浴場の料理屋、あそこは静かであるからとて、その料理屋へ行つた。その時、私は沼
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