終つた。たしか河童も酒になつて花外氏の身体をあたためたことだらう。それきり絵は戻つて来なかつた。それは、とにかくとして、牛久で泊つた時、河童の話などしてよけいに印象をつよめたのであつた。
 犬田卯氏とは震災の頃、東京で逢つた。たしか私が、「金の星」と云ふ雑誌をやつて居た頃であつた。芋銭先生の話が出たら犬田氏は、
「芋銭先生は知つて居ます。僕は金が無くなると行つては絵を貰つて来ます」
と微笑して居た。恰度新潮社から私の本が出版されるので、芋銭先生に表紙絵を描いて貰へるだらうかと話したら、貰へるかどうか解らないが、頼んでみたらとのことになつて、私から先生へ手紙を出したら、どう云ふ本の表紙か内容を見せてくれとのことであつたが、もう印刷に廻つて居て、取よせることも出来なかつたので、その頃銚子に居た先生の処へ行つてその話をしながら泊つて来た。先生は
「いくらでも描きませう」
と言つて、直ぐ次の日に送つてくれた。この表紙絵は、古代鏡に鶏が鳴いて居た。とてもよくて誰にでもほめられた。さうして居るうちに年が経つて行つた。
 千葉県の布川と布佐の間を流れる大利根に橋がかかつた。布川の町は小池赫山と云ふ人であるが、突然私の宅へやつて来て、
「利根に橋がかかりましたから、その唄を書いて下さい。布川町の唄も作つて下さい。芋銭先生をよく知つて居るから、寄附をしてくれた人へ記念のため扇子へ絵を描いて貰つて配るのです。先生の唄の扇子と共に一対にして配りたいのです」
とのことであつた。私は、芋銭先生の絵をけがすといけないからと、お断りすると、絵と字とは違ふから、二本一対にしたいとの希望があつたので、一本は絵で一本は唄で、これは印刷にされて配られた。当時は全然お目にかかる機会がなかつたけれど、かうしたやうに、いろいろなところよりお変りがないことを知つ[#底本では「っ」]てお喜びして居たのであつた。
 私の宅に犬田氏より求めた芋銭先生の色紙と、長井|雲坪《うんぺい》先生の蘭の茶掛とが掛けてある。雲坪先生の絵を芋銭先生はほめて居られたとのことであつた。この雲坪先生を乞食雲坪と言つて居る。なぜ乞食雲坪と云ふかと言ふに、屯《たむろ》して居る乞食を自宅へ連れて来ては「お客さん」と言つて泊めて居た。座敷は乞食で一杯となつて、自分が坐るところがない。ついには勝手のせまい所へ坐して暗い手ランプをつけて絵を描いて居た
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野口 雨情 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング