のは……」
などと、それから、いろんな話をした。俳句の話、絵の話、そして、この頃は絵を専門に描いて居ると言はれて居た。芋銭先生は牛久で下車された。これが最初の印象であつた。
 それから、幾年経たか、或ひは次の年位ゐか、はつきりしないが、江野村の井村氏を私は訪ふた。井村氏はよい人で、
「よく来てくれました。それでは俳友を集めよう」
と、私の来たことを人をして知らせたので、三四人直ぐに来たが、その中で透石と言ふ人は非常な俳論家で、子規や碧梧桐等のいろいろな話を聞かせてくれた。井村氏は子規居士の門下で江野村から東京迄歩いて来たのであつた。その井村氏が子規居士の短冊を持つて居られた。

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山吹にふきとばさるる蝶々かな   子規
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 字も結構であり、俳句もよいと思つたので、私は
「その短冊をくれませんか」
と言つたら、
「君がよい句が出来るやうになつたら、その時にあげませう」
などと言つて居られた。その時も小川先生の話が出たが、それによると、私が芋銭先生を知つたより前に井村氏と小川先生とは親しかつた。芋銭先生と井村氏は同じ時代に俳句を始めたのであつたとのことで、俳句も上手、絵も上手であると井村氏は語つた。これが第二の芋銭先生の印象であつた。
 さうして居るうちに私の詩集「枯草」が明治三十五六年頃刊行されたので、それを知人に送つたのであるが、ただ受取つた位ゐの返事や、送り先きに着いたか着かぬか解らなく返事もくれない人のあつたのに芋銭先生は長い手紙をくれて、あそこはああしたらよいとか、ここはかうすればよくなると言つてくれたので、芋銭先生は親切な方だ、と感じたのが第三の印象であつた。
 古河町の人で、竹峡と云ふ人があつた。この人は、私と同じ年頃の人でよく古河へ行つては一二泊したことがあつた。或日
「芋銭先生を訪ねよう」
と言ふと、
「君は先生を知つて居るのか」
と、竹峡氏は言つた。私は、一二度逢つたことがあると答へると、そんならと言つて二人して牛久沼を訪ねた。先生のお宅は沼の辺の農家のやうで、奥さんも畑の仕事からあがつてこられた。その時一泊とまつたか、今ははつきりしない。先生は私達に絵を何枚か描いてくれたので、嬉しく思つてこれを貰つて帰つて来ると、今は病気の詩人児玉花外氏が来て、
「芋銭のか、これは面白い」
などと言つて皆持つて行つて
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