札幌時代の石川啄木
野口雨情

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不可《いけない》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)岩崎|郁雨《いくう》氏

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 石川啄木の代表作は和歌にある。或る人の言はるるには、啄木の作品のどれを見ても深みが乏しい、もつともつと深みがなくては不可《いけない》、要するに歳が若かつた為めだらう、今二三十年も生存してゐたら、良い作品も沢山残しただらうと、斯うした見方も一つの見方かも知れないが、私はさうとは考へてゐない、和歌は散文でなく韻文だからヒントさへ捉めばそれでよいのである、そのヒントさへ捉み得ない詩人歌人の沢山あることを知つて頂きたい。

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故郷《ふるさと》の山に向ひて 言ふことなし 故郷の山は 有り難きかな
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 これは啄木の北海道時代の頃の作だが、啄木の作中でも優秀なものと思ふ。この作品なぞもヒントばかりで捉へどころが浅いと思ふだらうが、この浅いと思ふところに限りなき深さがあるのが韻文で、散文にばかり没頭してゐるとその深さが判らなくなつて仕舞ふ、一口に言へば韻文は散文のやうに言はんとすることを細大漏さず言ひつくし、思ふことを細々と並べつくすものではない、そこに韻文と散文の違ひは区別される、くどいやうだが和歌は韻文であり、詩も韻文である。
 啄木も生存中は、今日世人の考へるやうな優れた歌人でも詩人でもなかつた、普通一般の文学青年に過ぎなかつた、死後に名声が出てその作品も持て囃さるるやうになつたのだが、それも同郷の先輩金田一京助氏と土岐善麿氏の力と言つてもいいと私は思ふ。この両氏は函館の岩崎|郁雨《いくう》氏と共に啄木の伝記中に逸することの出来ない大恩人である。

   私の札幌行の動機

 私が初めて啄木と知り合つたのは、北海道の札幌である。今から三十数年の昔で明治の終り頃であつたが歳月の記憶も失念してゐるし、記憶も全く薄らいで仕舞つたが思出《おもひで》のままを書いてみることにする。
 その当時は、先年亡くなられた坪内逍遙先生が学校(早稲田大学)にをられて学校出の青年は先生の推薦によつて夫々《それぞれ》就職口を求めてゐた。私達もその一人である、先生よりの手紙に、
『君の希望してゐる新聞社が札幌にあるらしい、大した新聞ではないか知れぬが、梅沢君を訪ねて行くやうに』
と、あつた。梅沢君と言ふのは、同じ早稲田の先輩で西行法師の研究家として知られてゐた梅沢|和軒《わけん》氏のことだ、梅沢氏の父君は根室裁判所の判検事を永らく勤めてゐたから、和軒氏も北海道で育つて北海道の事情は何んでも知つてゐた。一見学者風の人格者である。私は坪内先生の手紙を見ると同時に小石川鼠坂上の和軒氏方を訪ねた。児玉花外、西山|筑浜《ちくひん》氏等がその以前に鼠坂下に住んでゐて、吉野臥城、前田林外氏なぞと始終訪ねて行つたことがあるから、この辺の地理はよく知つてゐた。幸い和軒氏は居つて、
『札幌の大した新聞ではないが、社長の伊東|山華《さんくわ》君が志士的な愉快な人だ、生れは福島県の若松藩だが帝大の専科を出た文章家だ、九段上の旅館にゐるから行つて見よう』と和軒氏も一緒に行つてくれた。
 九段上の旅館(名は忘れたが招魂社の傍)で社長の山華氏に会つた。成る程志士的気慨の溢れてゐるやうな人で、言語も態度も洵《まこと》に純朴だが一旦国を論じ世を議するとなればその熱烈さには敬服した。一見旧知の如く『明日の晩東京を立つて札幌へ一緒に行くから上野駅で落ち合はう』と直ぐ約束が出来て入社することになつた。私は直ぐに坪内先生のお宅へ上つて其旨を話すと先生は、
『北海道にはアイヌが居るからアイヌを主材としたものを書く方が良い』と御注意をして下さつた。
『これは僅だが、汽車中の弁当料に』と紙に包んで餞別を呉れたが『また東京へ来たらお世話さんになるですから』と無理に辞退して帰つた。東京には知人も友人も沢山居るが、余り突然なので人見東明氏と関|石鐘《せきしやう》氏と二人だけに札幌行きを話して翌晩の十時に上野駅を立つて行つた。私はその時二十三歳の青年であつた。
 汽車の中は社長の山華氏と二人切りで、翌日の午後に青森に着き、連絡船で函館に渡り再び汽車で札幌へ着いたのである。

   札幌へ来た頃の啄木

 私の札幌での居所は山華氏の紹介によつて大通りの花屋と言ふ下宿屋であつた。今は電車も出来てゐるが其頃は電車もない、大通りと言ふのは開拓当時火防の為めに作られた防火線であつて道路の中央は広い草原で東西に長く続いてゐる、この草原を中に挟んで両側に傍側《ばうそく》道路がある、この傍側道路に面した
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