ところを判り易いやうに大通りと言つてゐる、札幌のうちでも大通りは淋しい方であつた、明治の初めに北海道最初の開拓使永山将軍が将来の札幌を見越して大陸的に道路は広くし市街の区画割も思ひ切つて贅沢に定めたのださうだ、私のゐた花屋は室数《へやかず》が五室位のバラック式|平家《ひらや》で随分見すぼらしい下宿屋であつたが、それでも下宿人は満員であつた、皆なおとなしい人ばかりで高声一つ立てるものはない。
 ある朝、夜が明けて間もない頃と思ふ。
『お客さんだ、お客さんだ』と女中が私を揺り起す。
『知つてる人かい、きたない着物を着てる坊さんだよ』と名刺を枕元へ置いていつてしまつた。見ると古ぼけた名刺の紙へ毛筆で石川啄木と書いてある、啄木とは東京にゐるうち会つたことはないが、与謝野氏の明星で知つてゐる。顔を洗つて会はうと急いで夜具をたたんでゐると啄木は赤く日に焼けたカンカン帽を手に持つて洗ひ晒しの浴衣《ゆかた》に色のさめかかつたよれよれの絹の黒つぽい夏羽織を着てはいつて来た。時は十月に近い九月の末だから、内地でも朝夕は涼し過ぎて浴衣や夏羽織では見すぼらしくて仕方がない、殊に札幌となると内地よりも寒さが早く来る、頭の刈方は普通と違つて一分の丸刈である、女中がどこかの寺の坊さんと思つたのも無理はない。
『私は石川啄木です』と挨拶をする。
『さうですか』
 私は大急ぎに顔を洗つて、戻つて来ると、
『煙草を頂戴しました』と言つて私の巻煙草を甘《うま》さうに吹かしてゐる。
『実は昨日の夕方から煙草がなくて困りました』
『煙草を売つてませんか』
『いや売つてはゐますが、買ふ金が無くて買はれなかつたんです』と、大きな声で笑つた。かうした場合に啄木は何時《いつ》も大きな声で笑ふのだ、この笑ふのも啄木の特徴の一つであつたらう。
 そのうちに女中が朝食を持つて来た。
『朝の御飯はまだでせう』
『はア、まだです』
 女中に頼むと直ぐ御飯を持つて来た。御飯を食べながら、いろいろと二人で話した。札幌には自分の知人は一人もない、函館に今までゐたのも岩崎郁雨の好意であつたが、岩崎も一年志願兵で旭川へ入営したし、右も左も好意を持つてくれる人はない全くの孤立である、自分はお母さんと、妻君の節子さんと、赤ん坊の京子さんと三人あるが、生活の助けにはならない。幸ひ新聞で君が札幌にゐると知つたから、君の新聞へでも校正で良いから斡旋《あつせん》して貰はうと札幌までの汽車賃を無理矢理工面して来たのである。何んとかなるまいかと言ふ身の振り方の相談であつたが、私の新聞社にも席がないし、北門新聞社に校正係が欲しいと聞いたから、幸ひに君と同県人の佐々木鉄窓氏と小国《をぐに》露堂氏がゐる、私が紹介をするから、この二人に頼むのが一番近道であることを話した。啄木もよろこんで十時頃連れ立つて下宿屋を出た。
 これが啄木と始めて会つたときの印象である。

   北門新聞の校正

 啄木は佐々木氏か小国氏か二人を訪ねて北門新聞社へ行つた。私は途中で別れて自分のゐる新聞社へ行つた。その夕方電話で北門の校正にはいることが出来て社内の小使ひ部屋の三畳に寄寓すると報《し》らせて来た、月給は九円だが大《おほい》に助かつたとよろこんだ電話だ。
 それから三日程経つと小国氏から、啄木の家族三人が突然札幌へ来て小使部屋に同居してゐるが、新聞社だから女や子供がゐては狭くて困る、東十六条に家を借りて夕方越すから今夜自分も行くが一緒に来て呉れと言ふ電話があつた。私は承知して待つてゐた。その頃東十六条と言へば札幌農学校から十丁程も東の籔の中で人家なぞのあるべき所と思はれない。そのうちに小国氏は五合位はいつた酒瓶を下げてやつて来た、私は啄木の越し祝ひの心で豚肉を三十銭ばかり買つて持つて行つた。日は暮れてゐる、薄寒い風も吹いてゐた。小国氏は歩きながら、
『君の紹介で彼(啄木のこと)を社長に周旋したが、函館から三人も後を追つて家族が来るとは判らなかつた、社長からは女や子供は連れて行けと叱られるし、僕も困つて彼に話すと彼も行くところが無いと言ふし、やつと一月八十銭の割で荷馬車曳きの納屋を借りた、彼は諦めてゐるからいいやうなものの、三人の家族達は可哀想なもんだな』と南部弁で語つた。
 籔の中の細い道をあつちへ曲りこつちへ曲り小国氏の案内で漸く啄木の所へ着いた。行つて見ると納屋でなく廐《うまや》である。馬がゐないので厩の屋根裏へ板をならべた藁置き場であつた。
 隣りが荷馬車曳の家《うち》でこの広い野ツ原の籔の中には他に家はない、啄木は私達を待つて表へ出て道ツ端に立つてゐた、腰の曲つたお母さんも赤ん坊の京子ちやんを抱いた妻君の節子さんも一緒に立つてゐた。廐の屋根裏には野梯子が掛つてゐる、薄暗い中を啄木は、『危険《あぶな》いから、危険いから』と言ひな
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