とである。
山脈に就いては禹貢の外に山海經の如き詳細なるものがあるが、この二つは詳略の程度が餘りに異つて居るので比較し難い。只水脈に關しては隨分古くから研究家があるのであるが、殊に三江に關して禹貢を後世の地理に合せようといふ試みは幾度も行はれたことである。然るに後世北魏の※[#「麗+おおざと」、読みは「れき」、第3水準1−92−85、168−11]道元の水經注は東南の諸水に就いてその記載が確實でないと云はれて居る位であるが、假に禹貢を禹の時代とせずして、それより千年若くは千五百年も以後のものとしても、その水脈の記載が悉く後世の地理に合せんことを求むるは無理なる注文である。その上孟子の滕文公篇に記載した水脈、墨子の兼愛篇に記載した水脈などが必ずしも一々禹貢の水脈に符合すると云ひ難い所がある。墨子並びに孟子の編者は何れも尚書を見て居ることは明らかなことであるが、その記載が禹貢に典據したらしい形跡に乏しいのは尤も疑問とすべき所である。これ等も禹の治水に關する説が種々傳へられて居つて、墨子孟子の編者も各々そのある説を傳へ、而して禹貢も亦そのある説を傳へたと見る方が比較的眞に近いものではなから
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