の時代とも云はないが四極の説を載せて「東至於泰遠、西至於※[#「分+おおざと」、読みは「ひん」、168−2]國、南至於濮鉛、北至於祝栗」としてあり又「※[#「山へん+巨」、読みは「きょ」、第4水準2−8−33、168−2]齊州以南戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲太平、西至日所入爲太蒙」と記してある。これ等は四至に關する種々の異説で、大體に於いて東は海に至り西は流沙に至ることを知つて居る點は一致して居るものが多い。勿論この中には多少その説の出來た時代の早晩はあらうけれども、要するに大いなる差のない時代に於て行はれたる各種の四至説たることは疑ふの餘地がない。只それを或ものは禹とし、或ものは※[#「端」の「立」を取り、つくりに「頁」、読みは「せん」、第3水準1−93−93、168−6]※[#「王へん+頁」、読みは「ぎょく」、第3水準1−93−87、168−6]又は黄帝、神農などゝ一つ一つに決めて行つたに過ぎない。これ等は何れも當時の支那人が考へた世界の限りを云ひ表はしたる地理學家の言たるに過ぎない。此れを何れの時代の版圖が何處まで行つたといふことに執着して説明するのは學術上無意味なこ
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