、呂氏春秋求人篇には別に一説を出して「禹東至搏木之地……南至交趾孫僕續滿之國……西至三危之國……北至人正之國」とあり、淮南子の主術訓には「南至交趾、北至幽都、東至暘谷、西至三危」とありてこれを神農の時代にかけて居る。史記の五帝本紀には黄帝の時代として「東至于海……西至于空桐……南至于江……北合符釜山」と云うて居り、史記及び大戴禮には※[#「端」の「立」を取り、つくりに「頁」、読みは「せん」、第3水準1−93−93、167−16]※[#「王へん+頁」、読みは「ぎょく」、第3水準1−93−87、167−16]の時代として「北至于幽陵、南至于交趾、西至于流沙、東至于蟠木」といふ。管子、小匡篇には齊桓公のことを記して「北至於孤竹山戎穢貉拘秦夏、西至流沙西虞、南至呉越巴※[#「牛へん+羊」、167−18]※[#「牛へん+可」、読みは「か」167−18]※[#「瓜へん+長」、167−18]不※[#「まだれ+臾」、読みは「ゆ」、第3水準1−84−13、167−18]雕題黒齒荊夷之國」とある。東を缺いで居るのは齊が東海に濱した國であるからである。國語の齊語にも略之に類したことを載せてゐる。爾雅には何れ
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