つた名を擧げて居ることを何人でも見出すであらうが、時として同じ事柄に就きて異つた内容を有つた例では、漢儒が屡々殷周二代の禮としてこれを分けて説明することがある。これは解釋の困難を省く一種の方便に過ぎないことは朱子なども看破せる所である。九州の説なども當時俄かに發達したる地理の思想と、何事も數にかけて説明する時代思潮とが合して、その間に各種の九州説を出したのであるが、恐らくはその何れも時代とは最初關係がなかつたものであらう。唯その異つたものを巧く説明する便宜から或ものを禹の時代とし、或ものを殷の時代とし、或ものを周の時代としたにすぎないので、初は勿論禹の九州が定められたのであらうが、取り殘された他の種類の九州は後になつて殷周二代に決められたものと思はれる。十二州説の如きはそれよりも更に發達した數の思想であつて、恐らくは九州説よりも遲れて出たので、從つて堯舜に關する州の傳説は禹に關する九州説よりも後に作られたといふことは明らかである。
 その次に四至説に就きて試みに考へて見ると、禹貢には「東漸于海、西被于流沙、朔南曁、聲教訖于四海」とあるが、この四至説も隨分種類が多い。單に禹に關した事でも
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