の時代とも書いてない。只詩の商頌に九有とか九圍とかいふことがあるので、殷代にも九州があつた證據として爾雅の九州に當て嵌めたにすぎない。この中で疑問の起ることは、爾雅にも職方氏にも梁州がなくして禹貢丈けにあることである。梁州は今の四川、雲南地方であるが、殷代并びに周代の州名になかつた所のものが、それより古い禹貢に丈けあるといふことは一つの疑ふべきことである。又その他の古書から考へても四川雲南地方の地名が初めて出て來たのは尚書の牧誓であつて、其後春秋戰國時代に楚の國が巴若くは濮の地を領したことが見え、秦が昭襄王の時に蜀の地をとつたことが見えてゐるが、それより以前に此地方の地理が詳しく判かり、而かもその西南境の暹羅地方に流るる川の名までが知れてゐるといふことは餘程解すべからざることである。斯くの如き同じ統名の下に異つた内容を有して居り、或ひは同じ事柄が幾種にも傳へられるといふことは、この以下に説くべき各種の問題にも皆あることであつて、丁度戰國頃の時代から漢代までかけて、それ等を各時代別にして説明する傾の多いことに注意しなければならぬ。爾雅、論語、孟子等に屡々夏殷周の三代にかけて一つのことを異
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