作者のみである。殷の祖先の中で夏の時代に並んで在るべき人の中では、相土が乘馬を制作し、王亥が服牛を制作したとせられて居るが、服牛の制作に至つて初めて農事といふことを聯想し得る。周の祖先の人々の中には、元祖の后稷並びにその外に公劉が農事に務めた樣に詩の大雅には出て居るェ、この傳説を打消すべき材料は、その子孫たる人々に皇僕、高圉、亞圉等の牧畜に關係ある人名の存することである。要するに多くの古書は禹の時代に農業が發達して居つたといふことを聯想せしめる材料が少い。それ故に禹貢の中に存する貢の事實はある程度まで信ぜらるゝとしても、賦に關することは容易に信ぜられない。殊に田字の意義は詩の時代まで尚ほ狩獵の意義を存して居る。これは田字の原義であらうと考へられるから、田より賦を出すといふ意義はその以後餘程發達した時代のことである。禹貢の編成から見ても、田賦の記事丈けは禹貢が出來上つた後に竄入されたものかも知れないといふことは、その篇名を禹貢と稱することに由りても推察し得らるゝのである。
 貢、※[#「竹かんむり+匪」、読みは「ひ」、170−8]、包、※[#「はこがまえ+軌」、読みは「き」、170−8]
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