の時代とも云はないが四極の説を載せて「東至於泰遠、西至於※[#「分+おおざと」、読みは「ひん」、168−2]國、南至於濮鉛、北至於祝栗」としてあり又「※[#「山へん+巨」、読みは「きょ」、第4水準2−8−33、168−2]齊州以南戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲太平、西至日所入爲太蒙」と記してある。これ等は四至に關する種々の異説で、大體に於いて東は海に至り西は流沙に至ることを知つて居る點は一致して居るものが多い。勿論この中には多少その説の出來た時代の早晩はあらうけれども、要するに大いなる差のない時代に於て行はれたる各種の四至説たることは疑ふの餘地がない。只それを或ものは禹とし、或ものは※[#「端」の「立」を取り、つくりに「頁」、読みは「せん」、第3水準1−93−93、168−6]※[#「王へん+頁」、読みは「ぎょく」、第3水準1−93−87、168−6]又は黄帝、神農などゝ一つ一つに決めて行つたに過ぎない。これ等は何れも當時の支那人が考へた世界の限りを云ひ表はしたる地理學家の言たるに過ぎない。此れを何れの時代の版圖が何處まで行つたといふことに執着して説明するのは學術上無意味なことである。
山脈に就いては禹貢の外に山海經の如き詳細なるものがあるが、この二つは詳略の程度が餘りに異つて居るので比較し難い。只水脈に關しては隨分古くから研究家があるのであるが、殊に三江に關して禹貢を後世の地理に合せようといふ試みは幾度も行はれたことである。然るに後世北魏の※[#「麗+おおざと」、読みは「れき」、第3水準1−92−85、168−11]道元の水經注は東南の諸水に就いてその記載が確實でないと云はれて居る位であるが、假に禹貢を禹の時代とせずして、それより千年若くは千五百年も以後のものとしても、その水脈の記載が悉く後世の地理に合せんことを求むるは無理なる注文である。その上孟子の滕文公篇に記載した水脈、墨子の兼愛篇に記載した水脈などが必ずしも一々禹貢の水脈に符合すると云ひ難い所がある。墨子並びに孟子の編者は何れも尚書を見て居ることは明らかなことであるが、その記載が禹貢に典據したらしい形跡に乏しいのは尤も疑問とすべき所である。これ等も禹の治水に關する説が種々傳へられて居つて、墨子孟子の編者も各々そのある説を傳へ、而して禹貢も亦そのある説を傳へたと見る方が比較的眞に近いものではなから
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