うか。而してその中で禹貢の記載が尤も漢書地理志などに近く、説明し易いのは、寧ろ禹貢が戰國の末年までに於いて尤も發達したる地理學の知識を利用し得たと考ふる方が當つて居るかも知れない。
 禹貢の貢賦類に關する記載は、詳しく云へば田賦、貢、※[#「竹かんむり+匪」、読みは「ひ」、169−2]、包、※[#「はこがまえ+軌」、読みは「き」、169−2]と分けられて居るが、この中で田賦に關しては九州に由りて等級を區別して居る。兎も角耕作した土地からとる租税と考へられて居るので、周禮に云ふ所の賦とはその意義を異にして居る。周禮の賦は人頭税とも云ふべきものである。それを九種に分類して居る。孟子には又夏の時の田賦を貢と名くると書いてあるが、禹貢の云ふ所の貢とは異ふ。然るに禹貢の貢の意義は又却つて周禮の九貢といふ所のものと大體一致して居る。如斯貢賦に關する説は古書に由りて種々一致しないが、この點は九州説などの如く三代に由りて貢賦の名を巧に振り當てゝその説の齟齬を融通するといふ譯には行かない。而かも孟子の如く尚書を多く典據として居る本に禹貢との齟齬のあることは如何にも解すべからざることである。勿論貢の本義から云へば寧ろ禹貢並びに周禮の方が正しいのであつて、説文にも貢獻功也とある。周禮の九貢のことは天官大宰篇に出て居るが、その他夏官職方氏に出て居る貢の意義もやはり同樣であつて、即ち人の手業を加へた産物の意義であるから、田賦とは全く異つたもので、孟子に云ふ所の貢の解釋は決して最初の意義を表はしたものと云ふことは出來ない。唯問題となるのは禹の時代に田賦があり、且つその田賦が禹貢に記載せる如く等級まで明かに分つて居つたかといふことは甚だ疑はしきことであつて、之を他の古書に考へて見るに益々その疑問を深くする。詩では大體に於いて農業の祖を后稷に歸するのであつて、大雅の綿篇、魯頌の※[#「門がまえ+必」、読みは「ひ」、第3水準1−93−47、169−14]宮篇などがそれである。※[#「門がまえ+必」、読みは「ひ」、第3水準1−93−47、169−14]宮篇には后稷は禹の事業を繼いで農業を開いた樣に云うて居る。小雅の信南山篇にも禹が農業を開いた樣に云うて居る所があるが、一方世本を見ると夏の時代の制作者として、禹その他の人々を擧げて居るが、一も農事の制作者たる人を擧げて居らない、多くは家屋、車、武器、の制
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