世臣の考へ及ばなかつた所である。
康有爲の廣藝舟雙楫も、阮元に比べては大に南碑を寶重することに注意して居る。北派といふよりはやはり包世臣と同樣、六朝派と云ふべきもので、南帖の眞蹟が見られないから、南碑、南碑が少いから北碑を尊ぶのである。尤も此人の書學は決して深いものではない。唯一種の天才で變つた見樣をしたのであつて、其の議論は覇氣があつて極めて面白いけれども、併し其の實際の心得に於ては甚だ淺いやうである。其の碑に對する品評などに於ても、多く奇僻なものを採つて、莊重な端嚴なものは採らない傾がある。此の人は廣東の生れであつて、長く田舍に居つて餘り精良な碑帖などを見る機會がなかつたのが、北京へ出て僅かの日月の間に、琉璃廠あたりの店で、拓の精粗を問はず、手當り次第に多くの碑を見て、極めて大綱に渉る判斷を下したのである。書の神味を知つて、的實な論斷をするだけの素養も出來て居らなかつたらしい。但其文辭が極めて工妙に出來てあるので、動もすれば人が其文辭に迷はされて、其論旨まで買被るけれども、其の造詣は疑ふべき者である。康有爲が自ら書く所の字も、此の書論と同樣の趣があつて、一種の奇氣があるけれども、
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