其の最も著しいものであつて、有名な張得天などもどちらかと云へば其の派に屬する。率意の書風を大成したのは即ち劉石菴であつて、此の人は專ら董其昌の率意の點に注意して、さうして而も生境に於て其の妙處を發揮せずして、却て熟境に於て大成せんと試みて成功したのである。是が一種の着眼點であつて、率意派からして熟境に入つたのである。兎に角さう云ふ二つの派が既に明かに分れて居つて、さうして率意派が年と共に増長して居つた。所が近頃康有爲なども評するやうに、張得天、劉石菴と云ふものは帖學の大成であると言つて居るが、詰り古來法帖に依つて字を稽古する、即ち近代の語で言へば南派の書法と云ふものは、劉石菴に至つては殆んど大成したのであつて、それより外に一頭地を出すべき餘地が無くなつたと言つて宜しい。是が即ち近來の北派の書法を産出した重な原因である。
 それで北派の書法と云ふものは最近に現れたやうであるけれども、其の系統を論ずると云ふと即ち率意派の書法に原因をして居つて、劉石菴と別の道を辿つて、其の生境に於て妙處を求める方に傾いて來たのである。北派の推尊するのは南北朝時代の北朝の書で、殊に北齊の頃南方からして王羲之父
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