子の書が傳つて來ない以前の極めて素朴な書法を學ぶのであるが、是等の書は支那に於て古代には一向注意されなかつた譯ではない。宋の時などは北派の書のあると云ふことを勿論明かに知つて居つた。北宋の時には都が※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]京即ち今の河南の開封府にあつたから、目と鼻の間である所の洛陽邊にある澤山の造象石刻を誰も知らない筈はない。併し其の時分の書家が學ぶ所の書は皆王羲之以來の正統の文字であり、さうして又其の時は唐以來の※[#「莫/手」、第3水準1−84−88]本と云ふものも頗る傳つて居つたので、晉唐人の名蹟を見ることが比較的たやすく出來るので、北派の書風に必ずしも餘り重きを置かなかつた。北朝の字には氈裘の氣ありと言つて、之を卑しんで居つたのである。元來が北朝其の當時に於ても、名人と云ふものは矢張り南方の書風を慕つた形跡が多くて、即ち有名な鄭道昭、朱義章などのやうな人は確に南方の文字を學んだと思はれるのは、阮元も言ふ如く、北朝の人は極めて拘謹で、字を書いたからと言つて、自分の署名などはせぬと云ふにも拘らず、此の二人の如きは自分の書いたものに署名をして居る。是等が即ち南
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