あつて、殆ど一己の癖ばかりで書いて居るが、董其昌などはさうでなくして、頗る作意の書法にも長じて居る。自ら言ふには、自分が作意の書を書く時には、趙子昂の書は自分に一籌輸けるやうだと自負して居る位である。併し時々率意の筆法を用ひる、それで其の率意の處が即ち一種の妙處になるのであつて、それは董其昌の晩年の書に於て殊に著しく現れて居る。此の傾は清朝になつて益盛になつて來て、清初の人は矢張り董其昌と同じやうに全く作意の書法を捨てゝ居らぬけれども、其中には餘程率意の勝つて居る人がある。即ち王鐸などのやうなものは率意の勝つた人であつて、又作意の書を主として其の間に微かに率意の影を認めるのは傅山などの如きものである。是が康煕、雍正、乾隆頃になつて、此の二つの傾が又益明かになつて來て居る。康煕帝が董其昌の書を好んだのは、必ずしも其の率意の點を好んだのではなくして、寧ろ作意の點に重きを置いたかも知れない。それで其の方から出た一派は、董其昌が專ら力を得た所の根原にまで遡つて、米※[#「くさかんむり/(沛−さんずい)(四画)」、第3水準1−90−69]の書を學ぶ風が出て居る。即ち王夢樓、梁山舟などのやうな人は
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