の書法は生を貴ぶ。董其昌も自ら其の書を評して、自分の書と趙子昂のと比べると云ふと、各長短がある、趙の書は熟するによつて秀色を得て居る、趙の書は作意せざることなく、我書は往々率意ありと云つて居る。是が餘程能く時代の傾向を言表はして居る。即ち六朝以來唐宋元明までの書と云ふものは古來相傳の法があつて、其の法に合ふやうにと、努めて古法を學ぶことを主としたのであつて、それが即ち作意で、其の作意に依つて熟境に入ることを主として居る。然るに祝允明以後は如何に人が古法を學んでも、各其の人其の人の天然の癖即ち傾きがある。勿論作意の書法が盛に行はれて居る唐宋の時代でも、即ち此の天然の癖即ち傾きによつて最後に各一家を成す次第であるが、併し古代には努めて其の傾を沒却して、古來の法に近かんとしたのに、今度はそれに反して、其の自然に現れて來る所の傾を利用し、即ち又筆に依つて自然に生じて來る所の惰力を利用して、さうして各自の特色を發揮することを主として居る、是が即ち率意の書法である。是は祝允明に始まつて居つて、明末には最も盛に行はれて居る。即ち日本などで酷く評判される張瑞圖などは、矢張り率意書風の最も甚だしいもので
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