其の最も著しいものであつて、有名な張得天などもどちらかと云へば其の派に屬する。率意の書風を大成したのは即ち劉石菴であつて、此の人は專ら董其昌の率意の點に注意して、さうして而も生境に於て其の妙處を發揮せずして、却て熟境に於て大成せんと試みて成功したのである。是が一種の着眼點であつて、率意派からして熟境に入つたのである。兎に角さう云ふ二つの派が既に明かに分れて居つて、さうして率意派が年と共に増長して居つた。所が近頃康有爲なども評するやうに、張得天、劉石菴と云ふものは帖學の大成であると言つて居るが、詰り古來法帖に依つて字を稽古する、即ち近代の語で言へば南派の書法と云ふものは、劉石菴に至つては殆んど大成したのであつて、それより外に一頭地を出すべき餘地が無くなつたと言つて宜しい。是が即ち近來の北派の書法を産出した重な原因である。
 それで北派の書法と云ふものは最近に現れたやうであるけれども、其の系統を論ずると云ふと即ち率意派の書法に原因をして居つて、劉石菴と別の道を辿つて、其の生境に於て妙處を求める方に傾いて來たのである。北派の推尊するのは南北朝時代の北朝の書で、殊に北齊の頃南方からして王羲之父子の書が傳つて來ない以前の極めて素朴な書法を學ぶのであるが、是等の書は支那に於て古代には一向注意されなかつた譯ではない。宋の時などは北派の書のあると云ふことを勿論明かに知つて居つた。北宋の時には都が※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]京即ち今の河南の開封府にあつたから、目と鼻の間である所の洛陽邊にある澤山の造象石刻を誰も知らない筈はない。併し其の時分の書家が學ぶ所の書は皆王羲之以來の正統の文字であり、さうして又其の時は唐以來の※[#「莫/手」、第3水準1−84−88]本と云ふものも頗る傳つて居つたので、晉唐人の名蹟を見ることが比較的たやすく出來るので、北派の書風に必ずしも餘り重きを置かなかつた。北朝の字には氈裘の氣ありと言つて、之を卑しんで居つたのである。元來が北朝其の當時に於ても、名人と云ふものは矢張り南方の書風を慕つた形跡が多くて、即ち有名な鄭道昭、朱義章などのやうな人は確に南方の文字を學んだと思はれるのは、阮元も言ふ如く、北朝の人は極めて拘謹で、字を書いたからと言つて、自分の署名などはせぬと云ふにも拘らず、此の二人の如きは自分の書いたものに署名をして居る。是等が即ち南
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