ることは勿論であるけれども、帖の研究も決して粗略にしない。それで自ら書く所の字は決して北朝の書ではない。殊に日本に來てからして、日本に殘つて居る所の唐代の眞蹟と云ふものを見た。是が此の人の書に大變に影響を來して、日本へ來てから以後の書と云ふものは殆ど一變して、努めて眞蹟の筆意を取つて居る。併し其處には一種の見識を自分で持つて居つて、執筆の法は張得天の法を堅く守り、眞蹟の筆意を取るけれども、それを作意に依つて出さずして、率意に依つて之を出すことを務めて居る。それが即ち此の人の特色であつて、今支那に於ても此の人の書は殆ど第一流であるが、其の淵源する所は寧ろ日本傳來の眞蹟にあるのである。恐らくはかういふ書は支那に於て亦一の紀元を作るかも知れない。元來が北派の起る時に當つて、支那に若し日本の如く多數の唐代若くは六朝の眞跡があつたならば、支那人は何を苦しんで北派の粗拙なる字を學ぶべき。唯支那には其の時に古い眞跡がなかつたから、眞跡を下ること一等だからと言ふので碑を學ぶことになり、唐碑は昔流行り過ぎて皆磨滅し、覆刻ばかりだからといふので、六朝碑を稽古すると云ふやうになつたのである。それで日本に來て唐の眞蹟を見ることが出來、又近頃のやうに支那の敦煌其の他西域地方からして多くの眞跡が發掘されると云ふことになつて、之を見ることが容易になつて來ると、元來は書に就ては天稟の技倆のある支那人は、必ず石刻を差措いて眞跡に赴くと云ふことが當然である。將來は必ず眞跡によつて書の一變を來すであらうと思はれる。それも澤山の眞跡が表はれて來た結果として、六朝と云ふものも必ずしも尚ぶに足らぬこと、唐代の書と云ふものゝ矢張り最も上品な工妙な域に達したと云ふことを悟り得たならば、必ず其の方面に向つて進むことは明かである。自分は斷言しても宜しい、將來は必ず支那人の書と云ふものは眞跡に向つて研究を始める。さうして兎に角其の端緒を開いたものは即ち楊守敬であると言つても宜しい。日本などで現今遲れ走せに支那の北派の書をかつぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居るものなどは甚だ氣が知れぬ。日本には石刻以上の眞跡と云ふものが非常に澤山あつて、それ等は皆假令上手、下手に拘らず、當時の筆意をあり/\と傳へてあるものである。なに寫經生の書だなどゝいふ高論もあるけれども、唐代には書が盛んで、寫生までが能書で、後世の及
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