つたから、六朝より唐へかけての貴族は、三代の如く官氏としての家業を有するものでは無く、只地方の豪族たるに止つた。それ故唐の大學は隨分學者文人を出すには出したけれども、學問が家業となつて仕舞ふと云ふ樣な事は少なかつた。只歴史の學問に於ては親子相續する方が便利であつたからして、六朝から唐初には歴史を家業とする家が有つたが、之れは例外であつて普通學問を家業とするものは無かつた。所が日本では其の頃は丁度氏族制度の尚遺つて居る時代であつたからして、終に學問の家業が生ずる事になつた。主に平安朝の中期より末期にかけて家業を生じたが、中でも菅原大江の二家が紀傳道を家業とすることになり、清原中原の二家が明經道を家業とする樣になつたので、又中原氏には明法道の家もあり、それが今日の五條、坊城、清岡諸家の紀傳道、舟橋、伏原二家の明經家などを生じたのである。
 當時學問の造詣は如何と云ふに、都良香が貞觀十八年に大極殿が燒けた時に廢朝の事を議した文や、又元慶元年に夜の日食に就ての建議などは、いかにも其の該博を見して居る。一體春秋三傳の内では後世には左傳のみが主に讀まれるものであるが、當時の學者は公羊傳、穀梁傳など
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