平安朝時代の漢文學
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)都久夫須麻《ツクブスマノ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)温庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 平安朝の前半期には專ら漢文學が行はれ、後半期には國文學が興つたが、此の國文學が興つたのは漢文學の刺激に依るのである。大體日本の文化は支那文化の刺激によつて發達したのであるが、然し文化を生育すべき素質は初めから日本にあつたので、此の點は他の支那に近い邦々と異つて居る。即ち朝鮮には我が假名の如き諺文があるが、少數の歌謠の外、諺文文學といふものが遂に發達しなかつた。これを公に用ふる事になつたのは日清戰爭後の事であつて、かゝる事は古來數千年間無い所であつた。其の他の國は申すに及ばない。只日本のみは日本文學を有して居たのであるが、然し支那よりは後に發達した國であるからして、支那の刺激を受けたのは亦已むを得ぬ次第である。
 支那の文化が日本の文化に影響した事を知らうと思へば、先づ制度の方から知らねばならぬが、平安朝には專ら唐の制度が日本に行はれ、大學の制度もやはり唐の摸倣であつた。唐では國子監で大學の事を司つたが、日本では大學寮で之れを司つた。此の大學といふ名は漢の制度の名を取つたのであるが、其の制度の内容は全く唐の制度に依つたのである。唐の國子監は國子學と太學と四門學とに分れ、各博士あり助教があつて、廣く貴族より平民に至るまでの子弟を收容した。即ち國子學は三品以上の貴族の子弟、太學は五品以上の貴族の子弟、四門學は七品以上の貴族及び庶人の子弟を入れた。此の庶人の子弟であつて四門に入る者は、俊士生と云ひ、全くの平民であつたが、日本では學令によると平民を入れる事はなかつた。之れは平民が未だ大學に入る程には發達して居らなかつたからである。又日本の大學の教科目は如何と云ふに、明經道、紀傳道、明法道、算道、書道、音道等であつて明經道では九經(三經、三傳、三禮即ち詩經、書經、易經、公羊傳、穀梁傳、左氏傳、周禮、儀禮、禮記)を研究し、紀傳道では史記
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