、漢書、後漢書を研究し、この方は史學であると共に文學であつた。明法道とは法律學で音道とは字音學であるが、此の音道は支那へ遣唐使留學生を派遣するために必要であつたのである。
當時日本固有の文化と云ふものは未ださう進歩して居らなかつたからして、從て日本固有の學問と云ふものも無く、大學の學生は初めから支那の學問をしたのであつて、今日の支那人でも感心する樣な立派な漢文を既にその頃の日本人が書いて居るが、今日我々に此れ程の漢文を書けと云はれても書けない。それは生れるから直ぐ支那の學問をすると云ふ樣な境遇に居らないからであつて、恐らく西洋の文學をやる人でも、此點は同じで、王朝の漢文と同程度の英文なり、獨文なりを書くことは困難であらうと思ふ。
此の時代の特色は純日本種の學者が出て、學問の家業が出來たと云ふ事である。奈良朝の學問は歸化人の學問であつて、懷風藻の作者の中でも其の四分の一以上は歸化人若くは其の子孫であつたが、平安朝の學者の大部分は日本人であつて、歸化人では無い。さうして支那に於ては六朝より唐にかけて學問は貴族の學問であつたが、支那の氏族制度と云ふものは遠く既に三代以後其の跡を絶つて仕舞つたから、六朝より唐へかけての貴族は、三代の如く官氏としての家業を有するものでは無く、只地方の豪族たるに止つた。それ故唐の大學は隨分學者文人を出すには出したけれども、學問が家業となつて仕舞ふと云ふ樣な事は少なかつた。只歴史の學問に於ては親子相續する方が便利であつたからして、六朝から唐初には歴史を家業とする家が有つたが、之れは例外であつて普通學問を家業とするものは無かつた。所が日本では其の頃は丁度氏族制度の尚遺つて居る時代であつたからして、終に學問の家業が生ずる事になつた。主に平安朝の中期より末期にかけて家業を生じたが、中でも菅原大江の二家が紀傳道を家業とすることになり、清原中原の二家が明經道を家業とする樣になつたので、又中原氏には明法道の家もあり、それが今日の五條、坊城、清岡諸家の紀傳道、舟橋、伏原二家の明經家などを生じたのである。
當時學問の造詣は如何と云ふに、都良香が貞觀十八年に大極殿が燒けた時に廢朝の事を議した文や、又元慶元年に夜の日食に就ての建議などは、いかにも其の該博を見して居る。一體春秋三傳の内では後世には左傳のみが主に讀まれるものであるが、當時の學者は公羊傳、穀梁傳など
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