支那の唐文粹の眞似である。唐文粹は宋の眞宗の大中祥符四年に成つたが、これは日本の一條天皇の時であつて、本朝文粹の編者たる藤原明衡は之より四五十年おくれて居るから、唐文粹をまねて作つたといつても至當であらう。又續本朝文粹は平安朝後期の代表作を集めたものである。其の他各家の家集なども唐の家集を學んだのが多い。
 唐招提寺の開山、鑑眞和尚は唐の名僧であつたが、日本へ來て戒律を傳へた。途中海南島へ漂流したり色々と難儀の揚句、日本へ來たが、其の傳記を淡海三船が作つた。三船は少い時出家して元開といつたが後還俗した。此人は弘文帝の孫に當る人で、神武以後歴代の諡號を撰した有名の人である。此の傳記は寶龜年間に出來上つたから、奈良朝から平安朝への過渡期の著述の代表である。よく書いてある割に人にあまり注意せられない本であるから、一寸紹介して置く。
 當時日本人の著で支那人に誇り得るものがある。其れは祕府略である。祕府略は滋野貞主の編纂であつて一千卷あつたが今日僅かに二卷を殘すばかりである。其れは當時の寫本であつて前田家に一卷、徳富蘇峰家に一卷あるが、共に壬生官務の藏本であつたものである。一體、類書と云ふものは詔勅誥令其他の詩文を作るために、六朝、隋書で盛んに利用せられたものであるが、之れは日本に於ても同じであつた。唐代には梁代に出來た華林遍略(六百二十卷)北齊に出來た修文殿御覽(三百六十卷)及び唐になつてから出來た藝文類聚、初學記、北堂書鈔、白氏六帖等の書があり、日本の學者も此等を引用したが、祕府略はかゝるものを集めて作つたものである。其の後、宋の太宗の時、大平御覽(一千卷)が出來て大いに珍重せられたが、此れは矢張り唐代の類書を集めて作つたもので、其の卷數も體裁も祕府略と全く同樣であつて、實は此の樣なものならば百五十年も以前に日本人が作つて居るのである。今祕府略の中では百穀、錦繍の部が殘つて居るが、大平御覽と比較して祕府略の方が詳しい――同じ卷數で以て而も詳しい處を見ても、當時編纂の大仕掛であつたことが分るので、吾々日本人は甚だ愉快に感ずるのである。
 又文選集註と云ふ書物が有る。文選は平安朝に行はれたものであるが、其の註を集めたものが集註であつて、集註は初め百二十卷としたものであらう。一般には流布せず、永く武州金澤の稱名寺にあつた。文選には唐に至るまでに既に多くの註釋が出來て居たが、後
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