專ら盛唐風の詩を作られたのである。白樂天、元微之の存在は其の頃より知られては居つたであらうが、丁度其の頃入唐した弘法大師も元白の事に就ては何も云つて居ない。それは大師の入唐は徳宗の貞元の末頃から、憲宗の元和の初までゞあつて當時元白體は未ださう盛んではなかつたからである。穆宗の長慶年間に元白の詩文集が出てから初めて有名になつたのであるが、此れは大師が日本へ歸つた後であつて、時は恰も弘仁の末頃であるから、嵯峨天皇の時には元白集は珍らしく、天皇が御覽になつた位のことで、一般には未だ行はれなかつたと云はねばならぬ。此の元白體が有名になつた頃から、支那在來の詩風は一變したのであるが、日本では未だ其の影響を受けなかつたのである。影響を受けたのは菅公の頃であつて、菅公は元白體の詩を作つたのである。然るに菅公の頃に支那では又もや晩唐の温李體なる詩風が行はれ、温庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63](飛卿)李商隱(義山)等が有名であつたが、菅公は温庭※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]の集を已に讀で之を愛せられたとの事であるけれども、菅公の詩には温李體のものはあまりない。温李體の詩は菅公の孫文時などが此れを作つたのである。當時は遣唐使等が支那へ渡り、彼我の交通は有つたのではあるけれども、日本の流行はどうしても支那の流行よりは五六十年後れたのであつて、斯かる事は支那日本の文化の關係上面白い事である。
次には平安朝時代に出來た書物の事に就て少し述べよう。勿論それは澤山あるが、今述べるのは現存して支那の學者に珍重される二三のものを撰り出したのである。其の一は弘法大師が詩文の作法を書いた書物に文鏡祕府論と云ふのがある。此れは今日では實に世界的の著作となつたのである。其の譯は唐の時には詩の作法やかましく、其れに關する著書も多かつたが、其れは主として試驗に應ずる爲であつたからして、詩賦に依て試驗する制が廢せられた後には其の作法も自然廢れる樣になり、書物も段々殘らなくなつたのであるが、幸ひ日本には大師が此書を書いて置いたので、唐の時代の詩文の作法に關する支那にもなくなつた著述が殘つて居るのである。又文鏡祕府論の中に唐の河嶽英靈集の事が見えて居るが、此の詩集などが日本の平安朝の詩集などの手本になつたのである。平安朝の後半期になつて、本朝文粹といふ文集が出來た、これは多分
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