れば宜しく之に從ふべし。狗古智は即ち肥後國菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴國に在る右族にして、熊襲に屬する者なるべし。
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以上官名を考證し畢る。
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次に人名を考證せんに、其の主なる者は即ち
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卑彌呼 なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事[#二]鬼道[#一]、能惑[#レ]衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所傳を綜合して、最も此命の行事に適當せるを見る。其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、[#ここから割り注]倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し[#ここで割り注終わり]到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。年已長大無[#二]夫婿[#一]といへるは、最も倭姫命に適當せること、神功皇后とするの事實に違へる比にあらず、四なり。有[#二]男弟[#一]、佐治[#レ]國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以[#二]婢千人[#一]自侍といへる、數の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有[#二]男子一人[#一][#ここから割り注]隋書及び北史には二人に作る[#ここで割り注終わり]給[#二]飮食[#一]、傳[#レ]辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫《ヒノトバタヒメコチヽヒメ》[#(ノ)]命、また萬幡姫兒玉依姫《ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメ》[#(ノ)]命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等《キタシヒメノミコト》、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等《トヨミケカシキヤヒメノミコト》、註云 彌字或當[#二]賣音[#一]也とあるを引けるなどに從ふべし。
難升米 雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣[#二]大夫難升米等[#一]詣[#レ]郡求[#下]詣[#二]天子[#一]朝獻[#上]。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年[#ここから割り注]二年とあるは誤なり説下に見ゆ[#ここで割り注終わり]に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼|以《スデ》に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
伊聲耆掖邪狗 倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ[#「イ」に傍線]、サン[#「サン」に傍線]、ガ[#「ガ」に傍線]と訓むべく、掖邪狗も亦イ[#「イ」に傍線]、サ[#「サ」に傍線]、カ[#「カ」に傍線]と訓むべし、蓋し魏人が同一の人を兩樣の對音にて記せる者が、一は重複して記され、一は單に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲國出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我[#「伊佐我」に白丸傍点]神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祇志料に皆出雲國造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穗日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲國造系圖、中臣系圖、舊事紀の天孫本紀、物部、尾張二氏の系圖すべて帝系に比しては、太だ世數の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穗日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊聲耆、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。
都市牛利 此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては都市《ヅシ》を出石に擬することなり。和名鈔に淡路國津名郡都志[#ここから割り注]豆之[#ここで割り注終わり]郷あり、此島は天日槍命に縁あれば、此の都志も但馬の出石に縁ありて、イヅシの省略なるべしとの説あり。牛利《ゴリ》は心《ゴリ》の義なり。舊事紀天孫本紀に出石心大臣《イヅシゴヽロオホオミ》[#(ノ)]命あり此命は固より田道間守と何の縁故もあるにあらざれども、出石心といへることが人名として用ひられたる例とする事を得べし。心は紀の神代卷に田心《タゴリ》姫とある例にて、牛利に當るを得べければ、天孫本紀とは別人としても出石心《イヅシゴリ》、即|都志牛利《ヅシゴリ》といふ人名は、有り得べし。出石は天日槍以來、田道間守が家の居地なれば、其人が正使たる難升米即ち田道間守に縁あるより、次使として魏國に赴ける事を推定し得べし。伊佐我命に縁ある者としては、神名帳に出雲國出雲郡に都我利[#(ノ)]神社あり、栗田氏の志料に武夷鳥命[#ここから割り注]即ち天夷鳥命[#ここで割り注終わり]の孫、津狡《ツガリ》命を祀るとせり。都志牛利の志を邦語及び韓語に多き助語とせんには、都我利とも音近くなるべし。此も全く舍つべきに非ず。
載斯烏越 載を戴の訛とせば、武内に近しといふ説あれど、今は字を改めずして解釋を試みんに神名帳に出雲國飯石郡須佐神社あり、今須佐郷に在り、又大原郡佐世神社あり、今佐世郷に在り倶に須佐能袁命を祀ると栗田氏の志料に見えたり。此の須佐能袁命をかの素盞嗚尊とせんには、牽強に近かるべけれども、須佐もしくは佐世の地に居りし名族の名と解せんには不可なかるべし。
卑彌弓呼素 從來此の人名を讀むに、多くは素の字をモトヨリの義として、下の不和につけて讀めども、余は之を上につけて人名の中に入れたり。呼素はコソと訓むべく、國造本紀に見えたる凡河内國造彦己曾[#「己曾」に白丸傍点]保理命の己曾[#「己曾」に白丸傍点]、孝徳紀に見えたる神社《カミコソ》[#(ノ)]福草の社[#「社」に白丸傍点]、神名帳に見えたる攝津國東生郡比賣許曾[#「許曾」に白丸傍点]神社の許曾[#「許曾」に白丸傍点]、垂仁紀二年の註に見えたる難波と豐國國前郡と二處の比賣語曾[#「語曾」に白丸傍点]神社の語曾[#「語曾」に白丸傍点]などのコソと同じ樣に用ひられし者なるべく、比賣語曾といへば女性を見はすに對して卑彌呼といへば男性を見はすにもやあらん。卑彌呼と故さらに一字を違へたるもヒメコの意にあらざるが爲か。國造本紀には又山背國造に曾能振命ありて、彦己曾保理命とは異人なれども、命名の義は似通ひたるより思ふに、己曾といへるも曾といへるも本義には差なくして此の呼素も襲國の酋長などをや指しけん。
壹與 本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺[#「臺」に白丸傍点]與の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに臺與に作り、宋本御覽には臺擧に作れり、證とすべし。卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫[#ここから割り注]又豐耜姫命[#ここで割り注終わり]の豐《トヨ》といへるに近し。國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、倭人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。景行天皇の五百野皇女は、倭姫命の職を嗣ぎしさまに、國史に見えたれども、其の名字の音、似ざること遠ければ、之に當つべきやうもなし。
以上 人名を考證し畢る。
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次に論ずべきは道里なり。白鳥庫吉博士は、最近の考證に於て、道里に關する意見を發表せられたるが、其の大要は帶方郡より女王國に至るまで一萬二千餘里なるに、其の中間帶方郡より狗邪韓までは水路七千餘里、狗邪韓國より末盧國まで水路合して三千餘里、末盧より不彌まで陸路合して七百餘里なれば水陸合計、已に一萬七百餘里を算し、剩す所は一千三百餘里に過ぎず。此の一萬七百餘里は我が二百九十餘里に過ぎざれば殘れる一千三百餘里にては大和に達するに足らずといふに在り。然れども當時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なる者なりや否や、已に疑問なり。帶方郡より女王國に至るとは、女王之所都なる邪馬臺國を指せりや、女王境界所盡なる奴國を指せりや、將た投馬國と邪馬臺との接界を指せりや、先づ之を決せざるべからず、女王之所都に至るとせんには、白鳥氏の計算の如くなるべきも、奴國に至るとせんには一萬六百餘里に過ぎず、もし投馬と邪馬臺國の接界を標準とせば、一萬二千餘里は必ずしも短きに過ぎたりとはすべからず。且つ此道里は海路をば太だ遠く算し、陸路をば比較上近く算したる者なることを認めて、伸縮する所なかるべからざるが上に、下節に述ぶる如く帶方より不彌に至る道里と、帶方より女王國までの道里とは、其記者をも記事の時をも異にしたれば、之を一致せしめんこと難かるべし。又當時奴國、不彌國以南にして道里明白ならば、宜しく其の數を記すべきに、單に其の行程を日數にて計り、里數を擧げざるを見れば、此間の道里を一萬二千餘里の中より精確に控除して計算せんことは、杓子定規に近きの嫌あり。故に考證の基礎を地名、官名、人名等に求むるの寧ろ不確實なる道里に求むるよりも安全なるを知るべし。地名を等閑視するの過は、白鳥氏の考證に於て、已に之を見る者あり。氏は魏使が一支より末盧に至れる地點を定むるに、菅氏の説に據りて松浦郡値嘉島の見禰良久崎に因りし者となせり。値嘉島は今の五島なれば此より陸行して伊都に至るべき理なきことをば注意せられざりしと見ゆ、是れ著しき誤謬なり。余が見る所にては、魏使の上陸地點は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗縣主祖熊鰐、天皇を周芳の沙磨《サバ》之浦[#ここから割り注]即ち佐波にして、本傳の投馬に近き程の處なり。此の沙磨に關しては景行紀及び豐後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際經由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし[#ここで割り注終わり]に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門
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