より向津野[#(ノ)]大濟に至るを東門とし、名籠屋[#(ノ)]大濟に至るを西門とすとあり。名護屋が當時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壹岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。向津野大濟とあるは、周防の上之關、室積あたりに當るべきか。此あたり今は熊毛郡なれども、古は都濃郡とともに角國の中なりしならん。或は熊毛郡を古の周防郡なりしならんと説く者あれども、沙磨之浦が周芳に屬するを見れば、周防郡は都濃の西に在りて、東に在らざりしなり。此の都濃即ち向津野の津野と解すべく、向といへるは上之關などの海島にて、都濃の對岸に在る者を指せるならん。余は魏使の投馬以東に於ける上陸地點を此の向津野附近の要津ならんと想定す。道里を考ふるの次で聊か之に及ぶ。
次に此傳を構成せる材料に就て論ずべし。三國志は魏略に據れること、已に言へる如くなるが、魏略が何等の材料を採用せしかも推定し得べからざるに非ず。余は之を四種に解析せんとす。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
一、倭人在[#二]帶方東南大海之中[#一]より使譯所[#レ]通三十國までは漢書地理志に據りて、當時の事に及ぼし總序せる者、是れ一種なり。
二、景初三年六月より末尾に至るは、是れ當時官府の記録に據れる者、是れ又一種なり。
三、倭使の始めて帶方郡に詣りし時、之に本國の事情を訊問し、加ふるに漢書の如き前代の記録を參考して作れる記事、是を第三種とす。余は傳中、左の各節を以て此の性質の者と斷定す。
次有[#二]斯馬國[#一]より與[#二]※[#「にんべん+瞻−目」、第3水準1−14−44]耳朱崖[#一]同に至る一節。(い)
其行來渡[#レ]海詣[#二]中國[#一]より持衰不[#レ]謹に至る一節。(ろ)
其會同坐起より人性嗜[#レ]酒に至る一節。(は)
參問倭地より五千餘里に至る一節。(に)
四、魏使が倭國に至り親しく見聞せる所を記せる者、是を第四種とす。即ち左の各節なり。
從[#レ]郡至[#レ]倭より旁國遠絶、不[#レ]可[#レ]得[#レ]詳に至る一節。(イ)
倭地温暖より以如[#二]練沐[#一]に至る一節。(ロ)
出[#二]眞珠青玉[#一]より視[#二]火※[#「土+斥」、第3水準1−15−41][#一]占[#レ]兆に至る一節。(ハ)
見[#二]大人所[#一レ]敬より船行一年可[#レ]至に至る一節。(ニ)
[#ここで字下げ終わり]
一種と二種とは辯證を要せず。三種四種をかく解析せる標準は、一には三種に屬する記事が多くは倭より郡に至る方面より着眼し、四種に屬する記事が多くは郡より倭に至る方面より着眼せるの別あるに由る。二には次有某國云々といへる國名の排列が大和の王畿附近、特に伊勢を起點として、次を逐て最後に及べるに、從郡至倭云々といへる國名の排列は、之と全く反對の排列を爲せるに由る。三には記事に重複ありて、屬辭に脈絡なく即ち三種の(い)節、風俗不淫の句が四種の(ニ)節、婦人不淫不妬等の句と重複し、三種の同節、禾稻紵麻以下、箭鏃に至る物産が四種の(ハ)節に記せる物産と脈絡相屬せず、四種の(ハ)節、父母兄弟云々の句、三種の(は)節會同坐起云々の句と脈絡相屬せざるが若きに由る。又
[#ここから2字下げ]
夏后少康之子。封[#二]於會稽[#一]。斷[#レ]髮文[#レ]身。避[#二]蛟龍之害[#一]。(三種い節)
[#ここで字下げ終わり]
とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、
[#ここから2字下げ]
作[#レ]衣如[#二]單被[#一]。穿[#二]其中央[#一]。貫[#レ]頭衣[#レ]之。種[#二]禾稻紵麻[#一]。蠶桑緝績。――其地無[#二]牛馬虎豹羊鵲[#一]。兵用[#二]矛楯木弓[#一]。――竹箭――或骨鏃。(同節)
[#ここで字下げ終わり]
とあるは、大要漢書地理志の※[#「にんべん+瞻−目」、第3水準1−14−44]耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の參問云々も亦然りとす。
次に零碎なる字句の異同を校訂して以て、此章を終ふべし。
[#ここから1字下げ]
注に魏略を引きて正歳四時[#「時」に白丸傍点]とある時[#「時」に白丸傍点]を宋本には序[#「序」に白丸傍点]に作り。記[#「記」に白丸傍点][#二]春耕秋收[#一]とある記[#「記」に白丸傍点]を宋本には計[#「計」に白丸傍点]に作れり、從ふべし。重者滅[#「滅」に白丸傍点][#二]其門戸及親[#「親」に白丸傍点]族[#一]の滅[#「滅」に白丸傍点]を宋本は沒[#「沒」に白丸傍点]に親[#「親」に白丸傍点]を宗[#「宗」に白丸傍点]に作れり亦從ふべし。
其國本亦以[#二]男子[#一]爲[#レ]王。住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年。乃共立[#二]一女子[#一]爲[#レ]王。名曰[#二]卑彌呼[#一]。此數句異同甚だ多し。後漢書には前にも引ける如く、
[#ここから2字下げ]
建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱[#二]大夫[#一]。倭國之極南界也。光武賜以[#二]印綬[#一]。安帝永初元年。倭國王帥升獻[#二]生口百六十人[#一]。願[#二]請見[#一]。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無[#レ]主。有[#二]一女子[#一]。名曰[#二]卑彌呼[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間[#「桓靈間」に白丸傍点]を靈帝光和中[#「靈帝光和中」に白丸傍点]に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中[#「漢靈帝光和中」に白丸傍点]に作ることは北史と同じく、歴年の下に無[#「無」に白丸傍点][#レ]主[#「主」に白丸傍点]二字なきことは三國志に同じ、宋本御覽は三國志を引きて住七八十年[#「住七八十年」に白丸傍点]を靈帝光和中[#「靈帝光和中」に白丸傍点]に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願[#二]請見[#一]に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以[#二]男子[#一]爲[#レ]王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覽が三國志を引て靈帝光和中の句を殘せるは、當時の異本或はかく作りし者ありけん。
景初二[#「二」に白丸傍点]年六月は三[#「三」に白丸傍点]年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。
五、結論
已上の各章に於て、魏書倭人傳の
邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと
女王卑彌呼とは倭姫命なること
は粗ぼ論じ盡せり。但だ其の魏と交通せる時期が我が國史に於て、如何なる時代に相當するかは、尚ほ未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以て此の考説を結ばんとす。
余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。故に此の魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有[#二]背叛[#一][#ここから割り注]崇神紀六年の語[#ここで割り注終わり]により、神祇を崇敬せしこと、武埴安彦の叛、四道將軍の出征、狹穗彦の亂などに當る者とせんには、其間五六十年にして、長短頗る當を得る者の如し。是れ我が古史の紀年を定むるに於て亦甚だ有益なる資料たるべきなり。
今一事の注意すべきは、余が考定せる倭國の使人が田道間守以外の諸人も、皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。崇神紀六十年に見えたる出雲大神宮の神寶を貢上せしめたること、垂仁紀八十八年に見えたる但馬出石の神寶を獻ぜしめたることを併せ考ふるに、神寶の貢獻は實に其國の服屬を表する者なるべく、此の二國の服屬は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと、已に説く所の如くなるを以て、其時外交の使命を奉ぜし者が但馬、出雲二國の名族たりしことは、事情に於て極めて當然なりと謂ふべし。
若し倭人傳に見えたる倭國の習俗其他をも旁證し、又諸韓國との關係にも及ばんには、更に闡發を要する者あるべきも、此の考證已に長きに過ぎたるを以て、今皆之を略し、別に補考を草するの機を待たんとす。
[#地から1字上げ](以上明治四十三年七月「藝文」第壹年第四號)
[#ここから1字下げ]
附記
此の一篇は之を發表せし當時に於て、已に頗る專門學者の注意を惹き起したり。余と同時に白鳥博士は邪馬臺九州説を發表せられしが、尋で博士の門人橋本増吉氏は、長篇の論文を史學雜誌に載せて、同じく九州特に筑後川流域説を主持し、以て余が所説を覆さんとせられしも、多くは余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に駁議を要すべき所なきを以て、余は敢て之と爭はざりき。唯だ余が滿足せし一事は、此の一時の議論ありし結果、並時の學者が九州説を定論とせし迷信的意嚮より離脱し、再び近畿説と九州説との兩端に就て考慮するに至りしことにして、六七年前、考古學雜誌に於て、已に幾多の議を再發し、有力なる學者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り、其の中には九州以東の海路を山陰に考察する説などをも生じたり。之が一定の結論をなすまでには、尚ほ討究を累ねざるべからざること勿論なるも、學者が遠くは本居、鶴峯諸氏の名に震ひ、近くは星野、菅諸先輩の言に雷同せざるに至りしだけにても一の進歩と謂ふべし。今此篇を再び世に問ふに當り、二十年間に於ける史論の變化を囘顧して、中懷に※[#「木+長」、第4水準2−14−94]觸する所なきを得ず、因て聊か篇末に附言すること此の如し。
余が此篇を出せる直後、已に自説の缺陷を發見せし者あり、即ち卑彌呼の名を考證せる條中に古事記神代卷にある火之戸幡姫兒、及び萬幡姫兒の二つの姫兒の字を本居氏に從ひて、ヒメコと讀みしは誤にして、平田氏のヒメノコと讀みしが正しきことを認めたれば、今の版には之を改めたり。
其外、「到其北岸狗邪韓國」の條下に
[#ここから3字下げ]
此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る
[#ここから1字下げ]
といひ、又篇末に
[#ここから3字下げ]
此の二國(但馬、出雲)の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服屬を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと云々
[#ここから1字下げ]
といひしが、其後余は倭人が支那の戰國の末より漢代に至るまで、半島の南部に定住せしこと、山海經の記する所によつて推定し得られ、姓氏録に載する所、左京皇別吉田連の祖鹽乘津彦命が三己※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]の地に遣されしは、半島に殘存せし倭人が、他族の壓迫に對して、本國に援助を請ひし者なるべしと考
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング