し、楊守敬が三國郡縣表補正に其の誤脱なることを辯ぜり。今の福州府治なり。
    以上 地名を考證し畢る。
[#地から1字上げ](以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號)
[#ここで字下げ終わり]
 次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
爾支  隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。
泄謨觚、柄渠觚、※[#「凹/儿」、第3水準1−14−49]馬觚  泄謨觚も※[#「凹/儿」、第3水準1−14−49]馬觚もみなシマコ、即ち島子と訓むべきに似たり。但し我が上古にかゝる官名、もしくは尊號ありといふことを聞かず。柄渠觚はヒココ即ち彦子などゝや訓むべき。されど此も亦古書に證例なければ、確かには定めがたし。
多模  タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛※[#「瓦+髟−彡」、第4水準2−81−14]玉命、櫛明玉命、天明玉命、天太玉命、豐玉彦命又倉稻魂命、宇都志國玉神など、玉、魂の語を有せる神名甚だ多し。本居氏の古事記傳には宇迦之御魂《ウカノミタマ》の御魂を解して恩頼《ミタマノフユ》(神靈《ミタマノフユ》又|靈《ミタマノフユ》などもあり)又萬葉五(二十六丁)に阿我農斯能美多麻多麻比弖《アガヌシノミタマタマヒテ》などある意にて其|功徳《イサヲ》を稱へたる名なりといひ又|宇都志國玉《ウツシクニタマノ》神の玉は御靈《ミタマ》なり、故國御魂《カレクニミタマ》と云なり、故《カレ》此名は此神に限らず、倭大國魂《ヤマトオホクニミタマノ》神、高市[#(ノ)]郡吉野[#(ノ)]大國栖御魂[#(ノ)]神社、山城[#(ノ)]國久世[#(ノ)]郡水主[#(ニ)]坐[#(ス)]山背[#(ノ)]大國魂命[#(ノ)]神、和泉[#(ノ)]國日根[#(ノ)]郡國玉[#(ノ)]神社、攝津國東生[#(ノ)]郡生國魂[#(ノ)]神社、兎原[#(ノ)]郡河内[#(ノ)]國魂[#(ノ)]神社、伊勢[#(ノ)]國度會[#(ノ)]郡大國玉比賣[#(ノ)]神社、度會乃《ノ》大國玉比賣[#(ノ)]神社、尾張[#(ノ)]國[#(ノ)]中島[#(ノ)]郡尾張[#(ノ)]大國靈神社、遠江[#(ノ)]國磐田[#(ノ)]郡淡海[#(ノ)]國玉[#(ノ)]神社、能登[#(ノ)]國能登[#(ノ)]郡能登[#(ノ)]生國玉比古[#(ノ)]神社、對馬上[#(ツ)]縣[#(ノ)]郡島[#(ノ)]大國魂神社など各其國處に經營の功徳ありし神を如此申して祀れるなり、右の外にも國々に國玉[#(ノ)]神社大國玉[#(ノ)]神社と云多し皆同じといへり。[#ここから割り注]傳卷九[#ここで割り注終わり]是にて大かたは釋き得たりと思はるれど更に一證の擧ぐべき者あり、新撰龜相記[#ここから割り注]友人富岡謙藏氏が井上頼國博士の藏本より傳鈔せる者によれり井上本は吉田家の祕書を寫せる者なりと云ふ[#ここで割り注終わり]に今祭[#二]卜部坊[#一]櫛間智神社とありて其の注に母鹿木《ハハカキノ》神社也、一云[#(ク)]櫛玉命とあり。されば間智《マチ》といへる語と玉といへるとは同義なることを知るを得べし。間智は宇麻志麻遲命の麻遲に同じく、荒木田守良が鹿龜雜誌[#ここから割り注]富岡氏藏本[#ここで割り注終わり]に麻遲の名の古書に見えたるを擧げて、宇麻志麻遲命の外に神名帳の遠江國佐野郡|己等能麻知《コトノマチ》神社、近江國高島郡麻知神社、及び中臣壽詞に麻知[#(波)]弱韮[#(仁)]由都篁生出[#(牟)]とあるを引き、其の釋義は明かならずといへり。意ふに是れ亦大名持、大穴牟遲、大己貴の持、牟遲、貴及び神功紀五年に見えたる新羅人、富羅母智の母智と同じく、韓語にては上の義なること、此の富羅母智に當るべき人を、三國史記には朴堤上とし、三國遺事には金堤上とし、いづれも母智が上の義なることを推すに足るが上に、訓蒙字會には上を matai と訓じ、恰かも我が古書が貴をムチと訓むに當れるに徴しても知るを得べく、かくてタマ即ち多模も亦上、貴の義にて地方君長の尊稱と解することを得べし。本居氏が布刀玉命を釋して、特に玉を手向の義としたるは、穿鑿に過ぎたり。[#ここから割り注]古事記傳八[#ここで割り注終わり]
彌彌、彌彌那利  彌彌は天忍穗耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記傳卷七に、天忍穗耳命の名義を釋して、耳は尊稱なり(耳字はもとより借字)下に布帝耳《フテミミノ》神と云あり、又神武天皇の御子たちに某耳《ナニミミ》と申す多く、其外の人名にも多かる、皆同じことなり[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]さて耳てふ尊稱の意は、美は比に通ひて、かの産靈《ムスビ》などの靈《ヒ》なるを靈々《ヒヒ》と重ねたるものなり、開化天皇の大御名|大毘々《オホヒヾノ》命と申す是なり、此を書紀には太日々《フトヒヾノ》尊とありて、垂仁卷に太耳《フトミミ》と云ふ人[#(ノ)]名もあるを以て日々《ヒヾ》と耳と同じきことを知るべし、又明[#(ノ)]宮[#(ノ)]段なる前津見《マヘツミ》てふ人名を、書紀には前津耳《マヘツミヽ》とある(又水垣宮[#(ノ)]段に、陶津耳《スヱツミヽ》とあるを、舊事記には大陶祇《オホスヱツミ》と云ふも、據あるなるべし)を以て耳《ミヽ》と云は美《ミ》を二つ重ねたるにて、見と云は、其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて彌彌の義は明らかなり。彌彌那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を耳垂《ミヽタリ》といふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては鼻垂《ハナタリ》といへる賊と相并べて出でたれば、地方君長の尊稱とも見えざれども、傳説の混入多き古記には、彌彌那利の尊稱を種として、耳垂、鼻垂の説話を生出さずとも限らざれば、姑らく此に擧げて參考とするのみ。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳※[#「革+是」、第3水準1−93−79]  梁書及び南史には彌馬升なし、蓋し脱落ならん。宋本太平御覽[#ここから割り注]近ごろ又友人稻葉氏を煩はして※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]宋活字本御覽を圖書寮の宋槧本に對校せるに四夷部の倭國の記事中三國志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稻葉氏に深謝す[#ここで割り注終わり]には彌馬升を彌馬叔に作れり、是れ叔を古寫本などに※[#「叔」の別体、268−18]に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬臺國のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人傳の官名考定は從來史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本傳考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和國平群郡に往馬坐伊古麻都比古《イコマニマスイコマツヒコ》[#(ノ)]神社二座あり、栗田氏の神祇志料に、北山鈔を引て、凡そ大甞祭膽駒社の神部をして火鑽木を奉らしむといひ、又神名帳頭注を引き、卜部龜卜次第奧書を參して、卜部氏又此神を祭て、龜卜|火燧木《ヒキリキ》[#(ノ)]神と云といへり。新撰龜相記にも又祭[#二]卜部坊[#一]行馬社[#ここから割り注]一名膽駒社在大和國平群郡[#ここで割り注終わり]火燧木神也とあり。されば此神を祭る卜部の官氏を指して伊支馬とせるか、此れ一説なり。又垂仁天皇の御名を活目入彦五十狹茅天皇[#ここから割り注]記には伊久米伊理毘古伊佐知命[#ここで割り注終わり]と申し奉れり。我が上古の制度には御名代といふことありて、景行天皇の世に日本武尊の功名を録せんが爲に武部を定め賜ひしこと書紀に見ゆ。御名代と并び行はれし御子代の制度は、垂仁天皇の世に御子伊登志和氣王、子なきに因て、子代として伊登志部を定めたること、古事記に出でたれば、此の二樣の制は、其の起源更に記録に見えたるよりも古かるべし。記紀等には垂仁天皇の御名代を定められたりとの事實見えざれども、當時の制度よりして言へば有り得べからざることにあらず、この伊支馬は或は垂仁天皇の御名代ならんも知れずと思はるゝこと、此れ又一説なり。又書紀には、大伴氏が率ゐる來目部《クメベノ》遠祖|天※[#「木+患」、第3水準1−86−5]津大來目《アメノクシツオホクメ》といひ、大來目部といへるあり、記には久米直等の祖|天津久米《アマツクメ》[#(ノ)]命あり、本居氏は其の大伴氏に屬せりや否やに就きて議論あれども、要するに其上古に於て、大なる官氏たりしことは疑ひなし。伊久米といふは伊久久米の省略にてもあらんか。伊久《イク》は伊香《イカ》、嚴《イカ》などゝ同じく蒙古語の yeke に通ひて、大の義なるべければ、伊久米も大來目も同義なりといふことを得べし。活目入彦の入は親み愛みて云る稱なること、本居氏の説の如く、又孝徳紀二年に見えたる子代[#(ノ)]入部、御名[#(ノ)]入部の事などを參し、垂仁天皇の來目の高宮に坐せしことどもを取綜べて考ふれば、大來目部と此の天皇とは何等かの關係なくんばあらざるに似たり。されば伊支馬の官名を、大來目部と垂仁天皇の御名代と兩樣に縁ありと考へんことも不可なかるべし。次に彌馬升と彌馬獲支とは、相似たる官名なれば、一併に説くを便とせんか。上の垂仁天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。[#ここから割り注]記には御眞木入日子印惠命とあり[#ここで割り注終わり]此外にも孝昭天皇を紀に觀松彦香殖稻天皇[#ここから割り注]記には御眞津日子訶惠志泥命とあり[#ここで割り注終わり]と申し奉るも、并びに彌馬といへる地名と覺しきを冠したり。國造本紀には長國造の條に志賀[#(ノ)]高穴穗[#(ノ)]朝御世。觀松彦色止命九世孫韓背足尼定[#二]賜國造[#一]。とあり。此の長は阿波國那賀郡なるべきが上に、此國には又美馬郡といふもあり、神名帳には此國名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち觀松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして歸一すべきかは、今の急とする所にあらざれども、其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、彌馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、彌馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の榮えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦國押人命の後、崇神天皇の皇子、豐城入彦命の後など著しき者なれば、此の推定は甚しき牽強には陷らざるべし。次は奴佳※[#「革+是」、第3水準1−93−79]なり、中臣氏が上古に在て強大なる官氏たることは、證例を擧ぐるまでもなし。此外にも中跡直といふあり、栗田氏の國造族類考に中跡直は舊事紀に天椹野命中跡直等祖とあり、中跡は和名鈔伊勢國河曲郡中跡[#ここから割り注]奈加止[#ここで割り注終わり]郷、東鑑七に中跡庄、神名式に奈加等神社ある地に起れる氏なり、上に云る中臣伊勢連、中臣伊勢朝臣の中臣は即ち中跡にて、此に起れり、神名帳桑名郡中臣社あり、此氏神ならんとあり。奴佳※[#「革+是」、第3水準1−93−79]が天兒屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは必ずしも問はず、中臣もしくは、中跡の對音と見るべきは疑なし。若し果して邪馬臺を九州地方に擬定せんには、此の四の官名をいかに解すべきか。此の四の官名の擬定は、又本傳の主なる人物たる卑彌呼の何人たるかを推定するにも、極めて有力なる資料たること、下文を見て知るべし。
狗古智卑狗  汲古閣本に智[#「智」に白丸傍点]を制[#「制」に白丸傍点]に作るは誤れり。宋本三國志、宋本太平御覽、皆智に作
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