。乃遣[#レ]使貢獻。是汝之忠孝。我甚哀[#レ]汝。今以[#レ]汝爲[#二]親魏倭王[#一]。假[#二]金印紫綬[#一]。裝封付[#二]帶方大守[#一]假授。汝其綏[#二]撫種人[#一]。勉爲[#二]孝順[#一]。汝來使難升米、牛利渉[#レ]遠。道路勤勞。今以[#二]難升米[#一]爲[#二]率善中郎將[#一]。牛利爲[#二]率善校尉[#一]。假[#二]銀印青綬[#一]。引見勞賜遣還。今以[#二]絳地交龍錦五匹、[#ここから割り注]注略[#ここで割り注終わり]絳地※[#「糸+芻」、第4水準2−84−49]粟※[#「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」、第4水準2−84−80]十張、※[#「草かんむり/倩」、読みは「せん」、250−16]絳五十匹、紺青五十匹[#一]、答[#二]汝所[#レ]獻貢直[#一]。又特賜[#二]汝紺地句文錦三匹、細班華※[#「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」、第4水準2−84−80]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠鉛丹各五十斤[#一]。皆裝封付[#二]難升米、牛利[#一]。還到録受。悉可[#下]以示[#二]汝國中人[#一]。使[#上レ]知[#二]國家哀[#一][#レ]汝。故鄭重賜[#二]汝好物[#一]也。正始元年。太守弓遵遣[#二]建中校尉梯儁等[#一]。奉[#二]證書印綬[#一]詣[#二]倭國[#一]。拜[#二]假倭王[#一]。并齎[#レ]詔賜[#二]金帛錦※[#「(罪−非)/「厠」の「貝」に変えて「炎」」第4水準2−84−80]刀鏡采物[#一]。倭王因[#レ]使上[#レ]表。答[#二]謝詔恩[#一]。其四年。倭王復遣[#二]使大夫伊聲耆掖邪狗等八人[#一]。上[#二]獻生口、倭錦、絳青※[#「糸+兼」、第3水準1−90−17]、緜衣、帛布、丹、木※[#「けものへん+付」、251−2]、短弓矢[#一]。掖邪狗等壹拜[#二]率善中郎將印綬[#一]。其六年。詔賜[#二]倭難升米黄幢[#一]。付[#レ]郡假授。其八年。太守王※[#「斤+頁」、第4水準2−92−20]到[#レ]官。倭女王卑彌呼與[#二]狗奴國男王卑彌弓呼素[#一]不[#レ]和。遣[#二]倭載斯烏越等[#一]詣[#レ]郡。説[#二]相攻撃状[#一]。遣[#二]塞曹掾史張政等[#一]。因齎[#二]詔書黄幢[#一]拜[#二]假難升米[#一]。爲[#レ]檄告喩之。卑彌呼以死。大作[#レ]冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。更立[#二]男王[#一]。國中不[#レ]服。更相誅殺。當時殺[#二]千餘人[#一]。復立[#二]卑彌呼宗女壹與年十三[#一]爲[#レ]王。國中遂定。政等以[#レ]檄告[#二]喩壹與[#一]。壹與遣[#二]倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人[#一]。送[#二]政等[#一]還。因詣[#レ]臺獻[#二]上男女生口三十人[#一]。貢[#二]白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
 この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所[#レ]通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡[#レ]海千餘里。復有[#レ]國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。
[#ここから2字下げ]
倭在[#二]韓東南大海中[#一]。依[#二]山島[#一]爲[#レ]居。凡百餘國。自[#三]武帝滅[#二]朝鮮[#一]。使譯通[#二]於漢[#一]者。三十許國。
[#ここで字下げ終わり]
 三國志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「樂浪海中有[#二]倭人[#一]。分爲[#二]百餘國[#一]。以[#二]歳時[#一]來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊[#「舊」に白丸傍点]字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今[#「今」に白丸傍点]は魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。
[#ここから2字下げ]
樂浪郡徼去[#二]其國[#一]萬二千里。
[#ここで字下げ終わり]
 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼[#「徼」に白丸傍点]より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く
[#ここから2字下げ]
其地大較在[#二]會稽東治之東[#一]。與[#二]朱崖※[#「にんべん+瞻−目」、第3水準1−14−44]耳[#一]相近。故其法俗多同。
[#ここで字下げ終わり]
 三國志の文は「所二有無一」即ち風俗物産の※[#「にんべん+瞻−目」、第3水準1−14−44]耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を續けたるを、後漢書には位置の意義と變じたり。是れ改刪の際に起れる疎謬なり。
[#ここから2字下げ]
有[#二]城柵屋室[#一]。父母兄弟異[#レ]處。
[#ここで字下げ終わり]
 三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一條に在り。云く
[#ここから2字下げ]
自[#二]女王國[#一]東度[#レ]海千餘里。至[#二]拘奴國[#一]。雖[#二]皆倭種[#一]。而不[#レ]屬[#二]女王[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
 三國志のこの記事は、前に顏師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王國の東に復た國ありといへるのみにて、之を狗奴國とはせず。狗奴國の記事は、女王境界の盡くる所たる奴國の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改刪が不當なることは明らかなるに、從來の史家には、反て三國志を誤として、後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顏師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、※[#「隱/木」」、第4水準2−15−79]括したりと見るべき字句は、次に辯ずる數條を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち
[#ここから2字下げ]
又有[#二]夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲[#一]。傳言秦始皇遣[#二]方士徐福[#一]將[#二]童男女數千人[#一]入[#レ]海(中略)所在絶遠。不[#レ]可[#二]往來[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
の如きは、三國志の呉志孫權傳、黄龍二年に權が將を遣して海に浮び、夷洲及※[#「さんずい+亶」、第3水準1−87−21]洲を求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覺えねば、或は直ちに三國志に據りけんも知れず。されば此記事の本文として、三國志の據るべく、後漢書の據るに足らざることは、益※[#二の字点、1−2−22]明白なり。
 但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く
[#ここから2字下げ]
建武中元二年。倭奴國奉[#レ]貢朝賀。使人自稱[#二]大夫[#一]。倭國之極南界也。光武賜以[#二]印綬[#一]。安帝永初元年。倭國王帥升等獻[#二]生口百六十人[#一]。願[#二]請見[#一]。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無[#レ]主。有[#二]一女子[#一]。名曰[#二]卑彌呼[#一]。云々
[#ここで字下げ終わり]
 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之が三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。
[#ここから1字下げ]
附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。
[#ここで字下げ終わり]
 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。
 第二の要件たる字句の校定は、本文即ち地名官名人名等の考證と相待つて爲さざるべからざる者多く、單獨に各本の※[#「止+支」、第3水準1−86−36]異を列擧せんことは、益少きを以て、後段に合併して、此には省略することゝし、今はたゞ已に掲げたる本文が、元槧明修本を本として、一二乾隆殿板本を參照せる者なることを告白するに止むべし。余が見たる諸本の中にては、大體に於て元槧明修本、最も正しきを覺えたり。汲古閣の十七史は、世に善本と稱せらるゝ者なるも、余が知れる所にては三國志、後漢書等は、頗る劣れるが如く、三國志は往々乾隆殿板よりも劣り、後漢書は夐かに元大徳本に淵源せしと見ゆる寛永活版本より惡し。乾隆殿板本は明の北監本に出でたれば、此は重複して擧ぐるを要せざるべく、三國志の明南監本は馮夢禎が手校を經たれば、監本中のやゝ善きものとせらるゝこと、顧亭林の日知録にも見えたれども、其の體式已に古ならず、字句の訛奪も亦往々にしてあり。此等は余が撰擇の標準を定めたる理由なり。又參考せる書中、太平御覽は未だ宋本を見るの機會を得ざれば我が倣宋活字本を主として、極めて希れに鮑刻本を參照したり。鮑刻本は明板本を宋本にて校したる者によりたるが、四夷部倭國の條は、明板の粗惡殊に甚しく、鮑刻本は又之を汲古閣本の三國志にて校改したる跡ありて、校宋本として取るべき處殆ど之なく、我が活字本の影宋本を墨守せるに如かざるなり。通典、册府元龜等は通行本を用ひたり。

       二、本文の記事に關する我邦最舊の見解

 本文の記事を考證するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑彌呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最舊の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。
[#ここから2字下げ]
三十九年。是歳也大歳己未。[#ここから割り注]魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣[#二]大夫難斗米等[#一]詣[#レ]郡。求[#下]詣[#二]天子[#一]朝獻[#上]。太守※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]夏遣[#レ]使將送詣[#二]京都[#一]也。[#ここで割り注終わり]
四十年。[#ここから割り注]魏志云。正始元年。遣[#二]建忠校尉梯携等[#一]。奉[#二]詔書印綬[#一]。詣[#二]倭國[#一]也。[#ここで
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング