代に相當するかは、尚ほ未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以て此の考説を結ばんとす。
余は女王國が狗奴國と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該當する者と斷ぜんとす。上古に在て語部が語り繼ぎたる史實なりとも、當時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏國の記録に著はれたる史實が、我が上古史に全く缺佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に來りて、全く大和朝廷あることを知らずして歸れることを信じ得ざるがごとし。故に此の魏國まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に當る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后攝政の期は、那珂通世氏の説の如く、三國史記と神功紀の干支と、續日本紀の菅野眞道等の上表とによりて百濟近肖古王の時とすること當然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に彌れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に溯りて漢靈帝光和中の内亂を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有[#二]背叛[#一][#ここから割り注]崇神紀六年の語[#ここで割り注終わり]により、神祇を崇敬せしこと、武埴
前へ
次へ
全74ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング