次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以[#二]男子[#一]爲[#レ]王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覽が三國志を引て靈帝光和中の句を殘せるは、當時の異本或はかく作りし者ありけん。
 景初二[#「二」に白丸傍点]年六月は三[#「三」に白丸傍点]年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

       五、結論


 已上の各章に於て、魏書倭人傳の
 邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと
 女王卑彌呼とは倭姫命なること
は粗ぼ論じ盡せり。但だ其の魏と交通せる時期が我が國史に於て、如何なる時
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