などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有[#二]男子一人[#一][#ここから割り注]隋書及び北史には二人に作る[#ここで割り注終わり]給[#二]飮食[#一]、傳[#レ]辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫《ヒノトバタヒメコチヽヒメ》[#(ノ)]命、また萬幡姫兒玉依姫《ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメ》[#(ノ)]命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等《キタシヒメノミコト》、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等《トヨミケカシキヤヒメノミコト》、註云 彌字或當[#二]賣音[#一]也とあるを引けるなどに從ふべし。
難升米  雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年
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