ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣[#二]大夫難升米等[#一]詣[#レ]郡求[#下]詣[#二]天子[#一]朝獻[#上]。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年[#ここから割り注]二年とあるは誤なり説下に見ゆ[#ここで割り注終わり]に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼|以《スデ》に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
伊聲耆掖邪狗  倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ[#「イ」に傍線]、サン[#「サン」に傍線]、ガ[#「ガ」に傍線]
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